「計画的」ではなかった病院の成長
医療組織経営の調査を研究仲間と続けている。今年の2月には千葉県鴨川市の亀田総合病院を訪問し、亀田隆明理事長から病院経営の取り組みを聞いた。その後、当病院は東日本大震災の被災地支援で活躍した。今回は、そうしたエピソードを手がかりに、一つのエクセレントな経営の姿を浮き彫りにしたい。
今回の震災において、医療機関ないし医療従事者の被災地支援は広がっている。読売新聞によれば、震災以降1カ月のあいだに1万5000人の医師が被災地に入り医療支援を行ったという。亀田総合病院は、後方支援という形で被災地支援を図った。
同病院では、震災の翌朝3月12日の会議で被災者受け入れの決定をし、対策本部を設置した。そして、同17日には早くも、45人の人工透析患者の搬送が行われた。同23日には、いわき市立総合磐城共立病院から、航空自衛隊の大型輸送ヘリで運ばれた重症の透析患者8人を受け入れた。
また、同21日には、同じいわき市から介護老人保健施設の疎開が図られた。鴨川市・いわき市・日本郵政などと協議し、かんぽの宿鴨川に「施設丸ごと疎開」を行った。
入所者は122人、職員とその家族も合わせて全体で200人弱の疎開になった。受け入れ作業は、鴨川市長をはじめとする鴨川市関係者、亀田総合病院の関係者、そのほか各方面から集まったボランティア約250人が協力して行われた。
4月に入ってからも、知的障害者の受け入れなど、後方支援は続いた。原発事故のために避難を余儀なくされた富岡町、南相馬市原町、そして川内村の障害者支援施設を計九施設受け入れた。いずれの試みも、諸機関との調整が必要で、制度や法律の壁も大きかった。それらを一つひとつ克服し、そして迅速な対応を図った。
こうした取り組みが可能となるには、組織によほどの力が備わっていないといけない。少なくとも、不意の環境変化に応えるだけの人的資源や物的資源の蓄積、そしてそれら諸資源を迅速かつ自由闊達に使いこなす組織経営力が基礎的な要件になる。
こうした躍動する病院組織は、どのようにして生まれたのか。亀田理事長とのインタビューの中から考えた。
亀田総合病院は結核の療養所からスタートした。国立病院などと違って、前もって大病院になることを約束されていたわけではない。日々の創意工夫を通じて、一歩一歩成長した。だが、「青写真を描いて計画的に」というわけではなかった。たとえば、「この鴨川市に病院をつくりたい」と言ったとき、医療コンサルからどのような企画案が返ってくるだろうか、と理事長は問いかける。現在の亀田総合病院は、「医師数400人、ベッド数925床をもち、毎日3000人もの外来患者がやってくる」病院である。だが、最初からそんな病院を提案するコンサルタントはまずいそうにない。たぶん、ベッド数100床くらいの規模の病院が提案されそうだ。計算上は、人口3万6000人の町にはその規模がピッタリなのかもしれない。だが、今では地方のその規模の病院は苦境にあえいでいる。つまり、計画的・分析的なやり方だけでは、今の亀田総合病院が生まれることはない。