今年のNHK大河ドラマの主人公・徳川家康が生まれた愛知県岡崎市には3層5階建ての岡崎城天守閣が建つ。歴史評論家の香原斗志さんは「現在われわれが見ている城は、家康時代とも、その後に改修された城とも異なる。観光客目当てに作られた城だ」という――。
岡崎城の天守遠望(最上階に廻縁がつく)
筆者撮影
岡崎城の天守遠望(最上階に廻縁がつく)

NHK大河で描かれた城の姿は正しいのか

NHK大河ドラマ『どうする家康』は、最新のCG技術によるVFX(視覚効果)に力を入れている。その結果、「馬の動きが不自然だ」という声がネットなどに上がっているようだが、城の描き方は悪くない。

桶狭間の戦いの際、松平元康(徳川家康)が兵糧を入れた大高城のほか、駿府城や岡崎城の遠景および近景も映し出されたが、時代考証が行き届き、リアルに描かれている。

テレビの画面で、たとえば岡崎城を見て、「城というより砦じゃないか」と感じた人もいるだろう。だが、あれが「砦」であるなら、当時の城とは砦のようなものだった。

当時の城には石垣も、水を湛えた堀もなく、空堀とそれを掘った土を盛り固めた土塁を中心とした土の城だった。そこには天守どころか瓦葺の建物もなく、板葺きの掘立建物が建ち並ぶのがふつうだった。

一方、大河ドラマに合わせ、JR東海などが家康ゆかりの地を訪ねる「どこ行く家康」キャンペーンを実施中で、もちろん、家康が生まれた岡崎城は、訪問すべき重要な場所として扱われ、そこには石垣上に立派な天守が建っている。

ドラマで再現された岡崎城と現在の岡崎城の関係を、どのようにとらえればいいのだろうか。

家康時代のものは空堀と一部の石垣のみ

家康が岡崎城で生まれたのは天文11年(1542)12月26日とされる。駿府での生活を経たのちに、岡崎城に本格的に戻ったのが、永禄3年(1560)5月19日の、桶狭間の戦い後だった。

以後は元亀元年(1570)に居城を浜松城に移すまで、家康は岡崎を拠点にした。また、浜松に移ってからも、天正18年(1590)の小田原征伐ののちに家康が関東に移るまで、およそ30年にわたって、徳川家による三河国(愛知県東部)の支配の拠点であり続けた。

そのころ岡崎城がどんな姿であったか、具体的にはわかっていないが、ドラマのなかでCGによって映し出された景観と大差なかったはずだ。石垣が一部に積まれていた可能性までは否定できないものの、基本的に土の城であったことはまちがいない。

ただし、いま天守が建っている本丸跡が、当時も城の中心だったと考えられる。そして現在も、城の中心部には一部に、家康時代の名残を見ることができる。

本丸の北側には、清海堀とよばれる空堀が二重に配され、曲線的な構造がいかにも中世の城らしい。この堀は、本丸の対岸に築かれている石垣はのちの改修によるものに違いないが、堀自体は家康時代に由来すると考えられているのである。

家康時代の名残りをとどめる岡崎城の清海堀
筆者撮影
家康時代の名残りをとどめる岡崎城の清海堀