横になることもできない排除ベンチが最後の居場所
彼女がいた幡ヶ谷のバス停は、22時44分、渋谷駅行きが最終。バスが出てから始発が出るまで、彼女はここで過ごしていたと、地域に住む人が話している。
事件後、そのバス停に出向いてみた。なぜだか、居ても立ってもいられなかった。私は彼女と同じ時代に生まれ、同じようにバブル期に青春時代を過ごし、仕事に励み、それなりの収入を得たはずである。趣味にいそしむような楽しい時代もあっただろう。それなのに、こんなにも簡単に命を奪われてしまうものなのか。
「その人かどうかわからないけれど、キャリーケースのような荷物を持っていた人が、終電で帰ったときに座っていたのを見たことがある。うつむいていたので、顔はわからないけれど――。黒っぽいケースを持った誰かいたなあという感じしかない」
心配して声をかけた人もいたようだ。しかし彼女は「大丈夫です、ありがとう」と答えていたという報道もあった。
殴打された夜明けの時刻は、夜間と同じくらいの暗さだったのだろうか。その時間、周囲を歩く人はいなかったのだろうか。「やめて」「助けて」という声は発せられなかったのか。少しまどろんでいるところを突然襲われたため、声が出せなかったのか。バス停前にはクリーニング店があったはずだが、閉まっていて彼女の声は届かなかったのか。
大林さんが座っていたバス停のベンチに座ってみる。幅90センチほどの2人がけのベンチ。しかし、その真ん中には、鉄の手すりがついていて、横になることなどできない。座高も高い。奥行きも座るにはぎりぎりだ。木製で硬い。窮屈なこの場所に座って仮眠をとっていたのか。
以前、女性の路上生活者に話を聞いたことがある。
「夜は怖くて、あかりがあるところでしか眠れない。昼は公園に行ったりしていたけれど、夜はスーパーや銀行など、あかりがあるところでうとうとする程度だった」
日本では20年ほど前から、ホームレス対策として、長居ができないように全国の公園や駅の広場に、このバス停と同じような“排除のためのベンチ”が据え置かれた。
手すりをつける、傾きをつける。ステンレス製の素材で滑りやすい。おおっぴらに排除のためとは言えないから、オブジェやアート作品のように見栄えがよいベンチや椅子もある。思い返してみると、初めてこういったベンチを見たのは、2006年、上野恩賜公園だったか。あれから14年。都会のあちこちで、バス停にまで排除のためのベンチが置かれるようになったのだ。
助けるすべはなかったか
夜中になると、この狭いベンチで、大林さんは何を考えていたのだろうか。彼女は、必死に生きる方法を探していたのではないか。
徒歩20分ほどの代々木公園に行けば、女性ホームレス支援の『NORAの会』があったのに。彼女は携帯電話を止められ、情報にも窮していた。
もし自分だったら―。仕事がなくなり、家も失い、気軽に頼れる家族も友人もいなかったら、どうするだろうか。
公的支援につながる手だてを知っている人は、それを実行するだろう。しかしそれを知らない、あるいはつながりたくないと考える人は連絡などしない。
仮に大林さんが生活保護を望んでいても、申請すれば、唯一の家族である弟に扶養照会がいき、路上生活をしていることが知られる。それを恐れていたのか。「まさか、自分が路上生活をするとは……。まさかここで殺されようとは……」
薄れていく意識の中で、彼女の脳裏に去来したものはなんだったのだろうか。