※本稿は、樋田敦子『コロナと女性の貧困2020-2022 サバイブする彼女たちの声を聞いた』(大和書房)の一部を再編集したものです。
所持金8円、路上生活の末に殺された女性の身元
大都会に闇はない。漆黒という表現の世界はどこを探しても見つからないのである。東日本大震災後は暗くなったとはいえ、閑静なお屋敷街でさえ、ほの明るい光が降ってくる。どこに行っても、真夜中でさえも、あかりはつき、人の目がある。ましてや渋谷区幡ヶ谷は新宿にも渋谷にも近いため、上を走る首都高速4号新宿線、すぐ横を走る国道20号甲州街道は、ひっきりなしに車が通る。真夜中でも車のヘッドライトが次々に目に入ってきた。
事件は大都会のど真ん中で起こった。2020年11月17日付の新聞各紙で、この事件が一斉に報道されている。『東京新聞』によると〈16日午前5時5分ごろ、東京都渋谷区幡ヶ谷2の路上で、通行人から「女性が倒れている」と警視庁代々木署に通報があった。女性は通り掛かった50~60代の男に頭を殴られたとみられ、救急搬送されたが、約1時間後に病院で死亡が確認された。〉
被害女性は60代くらいで、路上生活者らしい。付近の防犯カメラには午前4時ごろ、男がバス停のベンチに座っていた女性を殴って逃げる様子が写っていた。女性の所持金は8円。衣服や携帯電話、失効した免許証などを持っていたという。
その後の調べで、女性の身元がわかった。被害者の女性は、広島県出身の大林三佐子さん(当時64歳)。派遣会社に登録して、スーパーで試食販売の仕事をしていたという。
登録会社の求人を見て応募する単発仕事。仕事が入るたびにスーパーに出向き、食料や飲料を試食させる販売員の仕事に就いていた。そこにはきちんとした労働契約はなく、仕事があれば働く「業務委託」だという。短期あるいは日雇いの仕事だった。
仕事があれば稼げるが、なければ収入はなくなる不安定な立場。この状態で何年か仕事を続けていれば、家も失い、お金もなくなってしまうのは容易に想像できる。それでもなんとかもちこたえていたのに、それを許さない事情が彼女を襲った。
新型コロナウイルス感染症である。2020年以降、感染拡大を恐れて、対面販売の仕事は極端に少なくなった。人と接触すれば感染するかも、感染させるかもしれない危険が、スーパーの対面仕事を極端に少なくしたという。大林さんは杉並区のアパートの家賃を滞納し、事件の4年ほど前からネットカフェを転々とした後に、路上生活者となっていた。