世界で人気のシティポップは、どのように生まれたのだろうか。音楽プロデューサーの川添象郎さんは「松任谷由実の1、2枚目のアルバムには細野晴臣、山下達郎、大貫妙子らそうそうたるメンバーが参加したが、売り上げはイマイチだった。3枚目のアルバムからのシングル曲『あの日にかえりたい』をテレビドラマ・タイアップにしたところ、大ヒットした」という――。
※本稿は、川添象郎『象の記憶』(DU BOOKS)の一部を再編集したものです。
デモテープを聴いた瞬間「才能を見つけたぞ!」
1972年、村井邦彦がヤナセ自動車の社長・梁瀬次郎と親しくなり、なにか文化的な仕事をやりたいという梁瀬次郎とともに原版制作会社として〈アルファ&アソシエイツ〉を立ち上げた。
そのアルファ&アソシエイツで作詞・作曲家として契約していたのがユーミンこと、荒井由実だ。
彼女との今日に至るまでの長い付き合いはヘアー(※1)の公演準備中に始まった。
ヘアーの出演者のひとりで、現在はプロデューサーとして活躍するシー・ユー・チェンがヘアーに出演したがっていた彼女を連れてきたのだ。
ユーミンという呼び名を付けたのも彼である。
※1 1967年にアメリカで初演されたミュージカル。ベトナム反戦・ヒッピー文化を題材に一大ムーブメントを巻き起こした。日本での初演を川添象郎氏がプロデュースしていた。
当時まだ15歳の少女であったため出演は断ったが、それでもリハーサル会場にはよく顔を出していたし、ヘアーが開幕してからもしょっちゅう楽屋に遊びに来ていた。
そんなユーミンがある日、自分で作詞作曲したというデモテープを持って現れた。
それを聴いた瞬間、僕は驚きとともに「才能を見つけたぞ!」というたしかな手応えを感じ、村井邦彦もまたその才能に感銘を受け、作詞・作曲家としてのみならず、シンガーとしてアルバムを制作しようということになった。
こうして、日本のシンガーソングライターのアルバム第1号が誕生したのである。