「不明」には別の意味もある
ところで「不明を恥じる」という成句があるが、これは何を恥じているのだろうか。大概の国語辞典において、不明という語の第一語義は「明らかでないこと」「はっきりしないこと」だ。報道で「行方不明」とか「安否不明」などという場合の不明である。だが、はっきりわからないからといって、それを恥じることはない。「不明を恥じる」の〈不明〉は第二語義の方なのだ。
●ふめい【不明】物事を見抜く才知に欠けていること。物の道理に暗いこと。「不明を恥じる」「すべて私の不明のいたすところ」「不明の至りであり、お詫び申し上げまする」
よく政治家が失言や失行をしたときに「不明の至りであります」などといって謝罪に努めるが、これは自らの〈愚昧〉を深く恥じている表現なのである。
◎ぐまい【愚昧】愚かで道理が分らないこと。「愚昧な男」
〈至り〉は「若気の至りで(=若さ故の旺盛な血気にはやって)」という成句が有名だが、この用例の場合「至り」は「物事の成行きや結果」を示す。
これに対し「不明の至り」の〈至り〉は次の義である。
●いたり【至り】物事のきわみ。きわまり。極致。
つまり「不明の至り」は「愚かしさの極み」ということ。恥との関連では「〈汗顔〉の至り」「〈赤面〉の至り」がこの用法。
●かんがん【汗顔】顔面に汗が噴き出るほど己を恥じること。極めて恥ずかしいこと。「汗顔の至り」「汗顔至極」「汗顔に堪えない」
「汗顔の至り」は恥ずべき過ちを犯して、反省している場合のみならず、「拙作(=私の作品)に過分のお褒めの言葉を頂き、汗顔の至りです」と賞賛に対する謙遜の言葉として用いることができる。
「恥じる」の上級表現「忸怩」
●せきめん【赤面】恥ずかしくて顔が赤くなること。顔を赤らめて恥じ入ること。「赤面の至り」
《阿呆な言葉ばかりを連発し、湯気の出るほどに赤面いたしました》(太宰治『文盲自嘲』)
《赤面した所を相手に見られたという意識が、彼のほおを一層ほてらします》(江戸川乱歩『算盤が恋を語る話』)
「赤面の至り」は「汗顔の至り」と異なり、謙遜の場面ではあまり使われない。意義からみればおかしくはないと思うが。
〈忸怩〉も忘じ難い、「恥じる」の上級表現だ。
●じくじ【忸怩】深く恥じ入ること。または、深く恥じ入るさま。「〈馬齢を重ね〉てしまい、忸怩するに堪えざるものがあります」「内心忸怩たる思い」「自ら顧みて忸怩たるものがある次第だ」
◎馬齢を重ねる なすこともなく老いる。徒に年をとる。「馬齢を加える」ともいう。