有罪判決を受け収監されたときにも来てくれた
人間というものは、上り調子のときは寄って来て、下り坂になれば離れていくのが普通です。
しかし千春さんは、私が日本中からバッシングを受けていたときも、決して見限りませんでした。鈴木宗男事件で有罪判決を受けたあと、収監されていた栃木県の喜連川社会復帰促進センターへ面会に来て、身体を気遣ってくれました。12回を数えた選挙のたび、最初のときと同じように骨身を惜しまず支援してくれました。
私が平成17年に新しい政党を立ち上げるとき、「新党大地」と命名してくれたのも、シンボルカラーを緑と決めてくれたのも、千春さんです。私のネクタイの色は、それ以来ずっと緑。
『月刊さっぽろ』昭和57年2月号の「ふるさと対談」に出たとき、千春さんはデビューして5年でしたが、『季節の中で』が大ヒットして人気絶頂。私はまだ中川先生の秘書でした。その記事に、こんなやり取りがあります。
〈鈴木 聞くところによると、政治家を志すと言われているね。
松山 それは、子どもの頃からの夢です。いつかは、政治家になって日本の国を動かしてみたい。それは、男のロマンの部分ですね。〉
千春さんは自身の夢を、私に託してくれたのかもしれませんね。
財界人や有力政治家に世話人を頼むのが普通だが…
この10月に札幌で、「鈴木宗男・鈴木貴子 北海道セミナー」を開催しました。政治家は、地元の財界人や有力政治家に発起人や世話人を頼むのが普通です。しかし私はずっと、千春さんに代表世話人をお願いすると決めています。
挨拶に立った千春さんは、
「姉貴が舌癌で辛かったとき、宗男さんはいつも心にかけてくれた。いつどんなときでも、人の心を忘れないのが宗男さんだ」
と24年前の思い出を、涙ながらに語ってくれました。
コンサートでも、しばしば私の話をしてくれます。
「人間、一生のうちにどれだけ人を愛し、人を信じることができたか。俺は宗男さんから人を信じることを教えられた。俺は相変わらず鈴木宗男を信じているし、これからもずっと支えていく」
ありがたいことです。人との出会いや縁は、人生を変えます。私はいい友に巡り会ったと、心から感謝しています。