約260年つづく維持管理体制を築き上げた天下人・徳川家康。家康は長くつづく体制をどう築いたのか。作家の童門冬二さんは「安定を最も重要視した家康は『出る杭を“必ず”打つ』ために、人間の欲望を理解し、巧みな支配で人を操った」という――。

※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

狩野探幽筆「徳川家康像」(
狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

人間の切実なニーズを逆用する

家康の、「人間の切実なニーズを逆用する方策」にはさまざまあるが、目に見えるものとしては藩をつくったことである。藩という言葉の意味は、もともと囲いとか垣根の意味だ。これは分断思想の表れである。

童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)
童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)

そうなると交通も自由にさせない。関所を設けた。川の渡しには番所を設けた。日本人が旅行するのにはそれぞれ目的が必要とされた。目的いかんによっては旅行を認めない。特に庶民は伊勢神宮に行くとか、高野山にお参りするとか信仰上の理由や家族に病人が出た、などという他は全く身動きできなくなった。

特に大都市の町々や各長屋では、入口に木戸が設けられた。午後6時に締まり翌朝午前6時に開けられる。したがって夜の12時間は完全に牢屋の中に入っているのと同じだ。檻の生活である。

家康はこうして日本中に檻をつくった。檻の中に人びとを閉じ込めた。これが徳川家康における、「日本の維持管理体制の確立」の実態である。

好都合な「武士の心構え」を植えつける

徳川家への忠誠度を物差しに、また人間の欲望を抑えつけてその逆エネルギーによって体制を維持する、ということは終始守られた。そのことを最も端的に表したのは、

「幕府の政策を批判してはならない」

ということである。

批判者はつぎつぎと罰された。もちろん、幕府に背くような大名は仮借なくその疑いだけで潰された。この物差しによって次々と滅ぼされた大名の家臣が失業して浪人問題を引き起こしたことは周知の通りだ。

こういう幕政への批判をあまねく食い止めるために徳川幕府は教育を重視した。教育といっても後代に教えるべきことはもう決まっていて、中国の朱子学である。

朱子学を持ち込んだ最大の理由は、

「武士の心構え」

が設定できたことである。

武士の心構えが設定できたというのは、徳川時代に入って新しく忠義の観念を植えつけたことだ。