同盟関係が臨機応変に形成された17~19世紀のヨーロッパ
まず比較のために、ヨーロッパの時々の大国間同盟が、集団的自衛権の仕組みには発展しなかったことを、簡単に確認しておこう。戦時中の軍事同盟は、「三国志」のような中国の古代史での戦争や、古代ギリシアの都市国家間の戦争の事例においても、発生していた。
「敵の敵は味方」といった発想は、人間集団の間の敵対関係の構図において自然に生まれてくるもので、特に際立って制度的な思想を必要としない。
国際法体系が発展した17~19世紀頃のヨーロッパにおいても、無数の国家間戦争が繰り広げられた過程において、複数の国家が同盟関係を結んだ。共通の敵と戦うためだ。戦争において、自国の戦いを有利に進めるために、諸国が同盟関係を持つのは、自然なことであった。
しかし今日の国際社会から見て異なっているのは、同盟関係が軍事的な必要性に応じて臨機応変に形成されたことであり、必ずしも制度的に運用されていたものではなかった点だ。NATO(北大西洋条約機構)のような恒常的な軍事同盟組織が成立して維持されている状況は、人類の歴史において、ほとんど類例が見つからない。
国際社会を生んだ「ウェストファリアの講和」
1648年に30年戦争を終結させた「ウェストファリアの講和」が締結された際、世俗的な内容を持つ紛争当事者間の合意が、戦後の秩序の仕組みを決めるという習慣が確立された。
「国際社会」の存在に着目する「イギリス学派」の国際政治理論の視点から見ると、これはヨーロッパの地理的範囲で「共通の規則と制度」を諸国が共有する地域的な国際社会が生まれたことを意味した。「イギリス学派」の代表的な理論家であるヘドリー・ブルは、17世紀から19世紀にかけて続くヨーロッパ諸国が運営した国際社会を、「ヨーロッパ国際社会」と呼んだ。
この「ヨーロッパ国際社会」においては、それまでの時代とは異なり、世俗的な内容を持つ当事者間の合意によって「共通の規則と制度」が形成された。これによって複数の諸国が、一つの社会を共有する社会的関係を継続的に維持するようになったことは、画期的な事件であった。
「ウェストファリアの講和」以前のヨーロッパにおいても、世界の他の地域の広域政治秩序においても、圧倒的な力を持つ特定の帝国の存在を支柱として、広域的な地域秩序が形成されるのが普通であった。東アジアにおける中国大陸の帝国を中心にした「朝貢システム」は、そうした非ヨーロッパ国際社会型の広域秩序の典型であった。