源頼朝の斬首を取りやめた平清盛の誤算
平清盛は平治の乱で源義朝を破った。義朝の嫡男である頼朝は、若年とはいえ戦闘に参加しており、斬首の運命が待っていた。
ところが清盛の継母である池禅尼が頼朝の助命を清盛に嘆願した。軍記物『平治物語』によると、頼朝が夭折した池禅尼の息子家盛に生き写しだったからだというが、古代学者の角田文衞が、より政治的な事情があったことを明らかにしている(『王朝の明暗』東京堂出版、1977年)。
頼朝の母の実家である熱田大宮司家は上西門院統子(後白河上皇の姉)に奉仕しており、頼朝も上西門院に仕えていた。池禅尼もまた上西門院と深い関係を有していた。頼朝の母方の縁者が上西門院を通じて池禅尼に働きかけたというのが角田の推定であり、これが今では通説となっている。
ともあれ清盛は頼朝の命を助け、伊豆への流罪に減刑した。これが将来の禍根となるとは、勝利の美酒に酔う清盛には思いもよらなかっただろう。
最高権力者・清盛のあっけない最期
それだけに、20年後に頼朝が反平家の兵を挙げたことは、清盛にとって衝撃だったはずだ。もっとも、清盛は当初、頼朝の反乱を軽視しており、福原遷都に力を注いでいた。
しかし治承4年(1180)10月、富士川合戦で平家軍が反乱軍に惨敗し(なお水鳥の羽音に驚いて逃げたという話は単なる噂と思われる)、情勢は一変する。清盛は福原遷都を中止して平安京に戻り、反乱軍の鎮圧に専心する。そのかいあって平家軍は盛り返すが、翌治承5年2月27日、清盛は突如熱病に倒れた。
軍記物である延慶本『平家物語』によれば、閏2月2日、死期を悟った清盛は一門に対し「自分に対する仏事供養は無用である。頼朝の首を我が墓の上に供えよ」と遺言したという。清盛は同月4日に死去した。享年64。武士として初めて日本の最高権力者に登りつめた男のあっけない最期であった。
恩を仇で返した頼朝への恨み
言うまでもなく『平家物語』は物語であり、創作や脚色が多々見られる。上の清盛遺言の場面もあまりに劇的で、作り話めいている。