ほとんどの国民が留学の成果を日本に持ち帰った

とくに問題なのは、この歴史経路依存的ということである。たとえば、明治初期から形成された日本の教育制度は、最も重要な経営資源としての人材育成の「核」になってきたが、こうした制度も日本固有の地政学的な立地条件により、大きく「制約」(プラスもマイナスも)されている。

中沢孝夫『働くことの意味』(夕日書房)
中沢孝夫『働くことの意味』(夕日書房)

明治維新は、薩摩や長州だけではなく、全国から有能な人材を登用して国づくりを行い、法律の整備や工業技術だけではなく、鉄道や郵便など社会的なインフラの仕組みを学び、アメリカからの「独立の大切さ」の学びを含めてわずか数十年の時間幅で、先進国にキャッチアップした。それは「これほどのスピードで進められた近代国家樹立(ネーション・ビルディング)は、ほかに類を見ない」(北岡伸一『明治維新の意味』新潮選書、2020年9月)ものだった。

しかも日本は、明治時代はもとより、第二次世界大戦後になっても他の国と異なり、ほとんどの国民は、留学の結果、その成果を持ち帰った。多くの途上国では、優秀な人間はアメリカやイギリスなどにそのまま残り、「人材の流失」という結果となった。

資源の豊富な中東諸国は二次産業が発展しない

こうした歴史経路は、それぞれの国や地域が異なっているように、モノ(物)をつくったりすることにも大いに役に立った。もちろん、日本が際立って優れているとは言えない。ただ、海に囲まれたことによって、輸出入に立地的に恵まれ、鉱物資源が少ないこともまた必ずしも悪いことではなかった。

「資源の呪い」とまでは言わないが、石油が豊かな国や内陸にあって、さまざまな希少資源に恵まれた国が、民主的なよい国に発展しないのは、地政学的なことに制約されている部分が大きい。彼らはとくに第二次産業の意味が理解できない。中東の産油国で、二次産業の発展している国がほとんどないのはそのためである。

ガスを燃焼させるバーレーン油田産業
写真=iStock.com/Mlenny
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なお、上記の青木昌彦氏の本に寄稿している浅沼萬里氏は、次のように述べている。

第一に、今日の製造業は、単一の標準的な製品の大量生産から多様化された製品のフレキシブル生産へという根本的な推移を経つつある。第二に、フレキシブル生産にかかわる製品戦略、生産戦略、およびマーケティング戦略の間には広範な補完性が存在するため、生産がフレキシビリティの度合いを進めるに従って、伝統的には互いに分離した職能を形成していた製品設計、工程設計、製造、およびマーケティングの間に、より大きなコーディネーションが必要となる。

第三に、フレキシブルで汎用性をもつ設備が使用される程度が大きくなるにつれて、垂直的統合の必要性は減じる。(なお浅沼氏のこの議論は、別途『日本の企業組織 革新的適応のメカニズム』東洋経済新報社、1997年6月、として結実している。)

ここで大切なのは、多様化された生産のフレキシビリティであった。これまでに筆者が歩いた工場は2000社を数えるが、同業者であっても、少しずつ「異なった」技術を持っていた。特定の企業との関係が深くても、オリジナルな独立した部分が絶えずあったのだ。

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