「奇跡」には4つの共通点がある

前述した2つの「奇跡」には、いくつか共通点があります。

1つ目は、私は絶体絶命の危機にあった、ということです。足を少しでも踏み外せば、奈落の底にまっさかさまに落ちていく崖っぷちを歩いていました。

2つ目は、私は命がけの努力をしていました。目の前の巨大な壁を、ただひたすら乗り越えようと必死でした。

3つ目は、私には私心がまったくありませんでした。壁を乗り越えれば自分が評価されるのではないかとか、これで偉くなってやろうといった気持ちは、一片も持ちようがありませんでした。

4つ目は、私は独りでした。もちろん、励ましてくれた人はいましたが、何の力にもなりません。当たり前ですが、私は独りで考え、独りで自分と闘ったのです。

つらい状況にあればあるほど、そのことを他人と分かち合いたくなるのが人間です。この孤独をきっと神様が見ている。だから最後まで耐えることができる。その意味では孤独を自虐的に楽しむ心境です。

活版印刷の活字で「miracle」の文字
写真=iStock.com/elinedesignservices
※写真はイメージです

と、うまくいけば、何とでも言えます。神様がどんなふうに私を見てくれていたかはわかりません。「こういうふうに見てほしい」と期待したこともありません。今だから脳天気なことが言えるのです。

ただ、この4つのうちのどれか1つでも欠けていたら、私は奈落の底に落ちていたのではないでしょうか。不幸の結末を予測することはできません。幸せと同じく、人生とは人間の心と頭を超えるものだからです。

人生は良いことばかりでも悪いことばかりでもない

ただひたすら自分のできることを一生懸命やった。それでも失敗した。

それを神様が見て「おまえがやったことは、どこかで間違っている」と判断したんでしょうか。

いや、そうではなく、私が失敗したのは、どこか別のところで成功しているからではないだろうか。一つ間違えば、一つ良いことがある。人生は良いことばかりでもなく、悪いことばかりでもない。

私は良いことが続くと、「ああ、これは悪いことが来るぞ」「ちょっと危ないな、これ」と絶えず「慎重にゆっくり」と心がけています。あらゆるものが、あまりにうまくいっていると、「この状況は良すぎるぞ」「ちょっと有頂天になり過ぎていないか」と気持ちを引き締めます。自分が良いことをしているということは、周りの誰かがどこかで悪いことをしている可能性がある。自分が良い目を見ているということは、反対にひどい目に遭っている人が周りにいるのだろう。もちろん、科学的、合理的な判断ではありませんが、それは大きくは間違っていないという確信があります。