「シューマイを東京の親類に持っていくと大いに悦んだ」

獅子文六は、1961年(昭和36年)に書かれた随筆のなかで、当時の中華街をつぎのように回想している。

〈私が南京料理を食ったのは、少くとも四十余年以前である。初めて海鼠なまこを食った人間の豪胆が推測されるように、初めてシナ料理を試みるのは、腕白少年の私も、すくなからぬ勇気を要した。横浜南京町のたしか永楽楼という家であったと思う(引用者註=正しくは永楽軒)。家へ入るとムッとし、料理を見るとムッとし、ウマいもまずいもあったものではなかった〉

〈シナ料理を食うことは、ちょうど、今なら、馬肉かなんか食いに行くのに相当した。横浜でさえそうだった。南京町を通るのに、鼻を抓んで駆け抜ける人さえあった。

だが、それから二、三年経って、一部の横浜人が、安くてウマいという理由の下に、「南京」を食べることが流行した。(中略)シューマイは一銭だった。一銭時代は非常に永く続いた。(中略)シューマイを土産に買うと、赤地に金の星を刷った綺麗なはこに入れてくれた。それを東京の親類へ持ってゆくと、大いに悦んだ。保守的な東京人が悦ぶくらいだから、当時頗る進取的であった横浜人は、猛然と「南京」を食い始めていたのである〉(『飲み・食い・書く』)

「中華街」の名前が定着したのは1955年以降

ちなみに、この場合の「南京」とは地名ではなく、中国中部からやってきたひとびとを日本人が漠然とそうよんでいたことに由来するらしい。当時の華僑はこのまちを唐人街とよんでおり、中華街の名が一般に定着するのは1955年(昭和30年)に建てられた善隣門に「中華街」と刻まれて以降のことである。

1946年(昭和21年)には、中華街大通りに新光映画劇場という映画館も開館したが、1960年代半ばに閉館し、現在は広東料理の老舗である同發の新館ホールとなっている。1976年(昭和51年)には、当時「北京ダック」という曲を発表した細野晴臣がこの同發新館ホールでティン・パン・アレーを率いてコンサートを開催し、2016年(平成28年)には星野源との共演により、40年ぶりに同じ舞台に立った。