劇場から総領事館へ、幕府と華僑団体が契約を交わした土地

横浜新田の埋立が完了した1862年(文久2年)には、民間信仰の象徴として「三国志」の英雄関羽の木像を祀る小さな祠が建設される。山手居留地が整備されたのちに中華街でもっとも古い華僑団体である中華会館が設立され、1871年(明治四年)に寄付を募って関帝廟を建設した。

「当時の中華会館の最大の仕事は、この地で亡くなった中国人の亡骸を祖国へはこぶことでした。いま中華会館の事務所があるこの場所には、中国人のための医療施設として同済病院が建っていたんです」

現在、中華会館の事務局長を務める関廣佳さんが教えてくださった。

関帝廟通り沿いの旧居留地135番地には現在、山下町公園がある。1863年(文久3年)には中華会館が幕府とこの地の土地契約を交わした記録がのこっている。その後、1868年(明治元年)頃、この場所に會芳樓という劇場が建てられた。中国の演劇はもちろん、日本人による曲芸や西洋演劇の公演もおこなわれ、料亭としての機能も有していたという。現在、山下町公園の一画には、その歴史にちなんで「會芳亭(※「亭」は異体字)」という門看を掲げた東屋が建っている。

日本の山下公園にある船の鐘
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1877年(明治10年)頃に會芳樓が閉業したあと、しばらくは馬車の製作所が置かれていたが、1883年(明治16年)に居留地145番地にあった清国駐横浜領事館の新館が建てられ、1897年(明治30年)以降は清国総領事館として使用された。

日清戦争を引き金にした職業制限が、中国人の料理人を増やした

こうして華僑のコミュニティが発展を遂げていく一方で、日本人の中国人に対する意識も変化していく。大きな転機となったのが、1894年(明治27年)の日清戦争勃発である。これによって華僑に対して悪感情を抱く日本人が急増し、それまで商取引の仲介を通じて授受されてきた手数料の廃止が叫ばれるようになった。1899年(明治32年)には外国人居留地が撤廃され、中国人の内地雑居をめぐって賛否両論が巻き起こる。結果、中国人たちは大幅な職業制限を受け、理髪、洋裁、調理からなる三把刀さんばとうが中国人たちの代表的な職業となっていった。

明治末期になると、中華街でもっとも古い料理店である聘珍楼が店名を日本語の音読みで表記するなどして、徐々に日本人客も増えていった。