横浜の人気観光スポットである中華街は、どのように発展してきたのか。ライターの佐野亨さんは「日清戦争勃発時には華僑と日本人の関係が悪くなり、職業制限がなされた。その中で、調理が中国人たちの代表的な職業のひとつになっていった」という――。

※本稿は、佐野亨『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)の一部を再編集したものです。

横浜中華街
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横浜中華街の始祖となった「買弁」とよばれる中国人たち

横浜における中国人コミュニティの歴史横浜の外国人居留地は、開港後まもなく整備された山下居留地と外国人の増加を受けて1867年(慶応3年)に整備された山手居留地に分かれる。

開港とともに横浜には欧米から大勢の商人がやってきたが、彼らの多くは中国人をおともにしていた。日本人とおなじく漢字を読み書きする中国人に仲介役を担わせるためである。中国人たちは、通訳にとどまらず、日用品の買入れや金銭管理などあらゆる面で貿易には欠かせない存在であった。これが買弁ばいべんとよばれる中国人たちである。

こうした貿易上の都合から、中国人たちはおもに山下居留地に居をさだめた。なかでも中国人居住者が密集していたエリアは本村ほむら通り付近であったという。現在の南門から開港道にあたる一帯で、フランス人技師クリペが開港時に描いた「横浜絵図面」を見ると、界隈のなかで唯一、本村通りだけが「HOMURA ROAD」と記されている。ここから徐々に居住区が広がり、中国人たちのコミュニティが形成されていった。