約6割が越境入学していた番町小学校
1959(昭和34)年、番町小は37%、麹町中は39%が学区外から通学していた(当時の新聞報道)。メディアは「よい学校」だから越境が増えると解説する。
「“よい学校”というのは、なんだろうか。上級校への進学率がいいということだ。番町小からは、まず、無条件に麹町中に進学できる。麹町中から日比谷高への入学者は昨年が41人、卒業生541人の1割以下にしかすぎないが、それでも他の中学の進学者数をはるかに上回っている」(朝日新聞1959年1月13日)
1965(昭和40)年になると、番町小学校の生徒数約1700人のうち約6割が越境入学といわれた。番町小に通う小学生について、こんな記事がある。
「総武線の上り電車はサラリーマンでほぼ満員。黄色い学童帽がドアの人がきをたくみにかきわけ奥へもぐりこんだ。〔略〕A君は番町小1年生。家族の話だと、ある区議の骨折りで通学区域にある代議士の事務所に寄留、この春入学した。「ぜひ、東大医学部へ……」という母親の声援を受けて毎朝6時起床、7時には自宅を出てひとりで電車に乗る」(朝日新聞1965年11月12日)
このまま「A君」が番町小を卒業し麹町中に進めば、同中卒業は1974年になる。だがこのころ、麹町、日比谷をめぐる風景は一変していた。
「番町小学校→麹町中学校→日比谷高校」というエリートコースの崩壊
1973(昭和48)年、日比谷からの東京大合格者は学校群制度によって29人(ランキング18位)まで落ち込んだ。このとき、メディアは麹町中教員の話として、1960年代半ばまでと当時(1970年代前半)の違いを紹介している。
「とにかく、この学校でも、すべてが日比谷に向かっていきました。学力のある子どもはすべて日比谷に行きました。教育大付属に受かっても、慶応高に受かった者も、わき目も振らずに日比谷に進学したものでした」
ところが、現在はどうなっているか。
「今年は34人が日比谷に合格しましたが、うち15人は他の国立の付属学校か、私立高校に進んでいます」(『週刊読売』1973年4月7日号)
こうして、番町小学校→麹町中学校→日比谷高校というエリートコースが崩壊する。いま、全国的に一中は学区が広がり、多くは都道府県内であればどこからでも通える大学区制になったため、特定の小学校、中学校から一中に進学する例はあまり見られなくなった。
一方で、各都道府県には国立大学附属小学校、中学校があり、ここから一中へ進むというルートは存在する。秋田大学附属中から秋田高、群馬大学附属中から前橋高、香川大学附属中から高松高校、熊本大学附属中から済々黌高校などである。