9教科平均で90点を取っても合格できない

小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)
小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)

このころ、日比谷に入るために中学生は猛烈な受験勉強をしていた。1956(昭和31)年から都立高校入試は9教科(国語、社会、数学、英語、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭)となっており、900点満点の試験で、日比谷に合格するためには830点以上必要と言われていた。

たとえば、1963年当時の資料によれば一科目平均92.2点であり、他の都立高校よりも明らかに高い(『青山学院高等部 最近5年間入試問題と解説付東京都立高校最近3年間入試問題』東京図書、1963年)。なお、都立高校を受験するためには、都内で定められた学区の中学を卒業予定でなければならない。そこで、他県からその学区の中学に転校してくる教育熱心な家庭が出てきた。越境入学だ。これは後述する。

また、東京教育大学附属駒場中学(現・筑波大学附属駒場中)を卒業して日比谷に入学する秀才もいた。いまでは考えにくいことである。

「テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる」

東京大など難関大学に進むために日比谷に入りたい――。成績優秀な中学生の高校受験パターンとして、第一志望が日比谷、第二志望が開成、武蔵、麻布、早稲田大学高等学院、慶應義塾、東京教育大学附属(現・筑波大学附属)、東京教育大学附属駒場などの高校であることが少なくなかった(当時、武蔵や麻布では高校からの募集があった)。

居間の宿題をしている日本の女の子
写真=iStock.com/kazuma seki
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1960年代前半、日比谷ではどんな授業を行っていたのか。同校の進学指導主任教諭が自著でこう記している。

「わたくしどもは、補習授業をしたり、超学年制をとったりすることが、高校としてまちがっているだけでなく、受験のためにも決してプラスにはならない、と信じています。〔略〕まず、本校ではテストの回数を極力減らしている〔略〕テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる」(加川仁『必勝大学受験法―――〈東大入学日本一〉の勉強法をあなたに』講談社、1963年)

ここで言及された「超学年制」とは、学年を超えて高校2年修了時に3年までの課程を修了させることである。先取り学習で、いまはめずらしくないが、当時はそれほど多くなく、東京大合格者数を急速に増やしていた灘高校などが採り入れていた。

日比谷は灘を「まちがっている」と批判したことになる。高校は受験予備校ではなく、日比谷はそんな野暮なことはしない、というプライドを持っていたのだろう。