国連の経済封鎖で窮地に陥ったタンザニアに手を差し伸べた中国
タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカプリムポシ間を「タンザン鉄道(タンザニア・ザンビア鉄道)」が走っている。現在のタンザニア・ザンビア地域(ザンビアはかつての英領北ローデシア)が植民地支配から独立したのは60年代に入ってからのこと。北ローデシアは銅鉱石の産地で、植民地時代には南ローデシア(現ジンバブエ)を経由して南アフリカ共和国の港湾から輸出していた。
しかし65年、南ローデシアの自治政府が一方的に独立を宣言し、しかも当時の南アフリカ共和国と同様のアパルトヘイト(人種隔離政策)を実施するとしたために国連が南ローデシアを経済封鎖してしまったのだ。こうなると、ザンビアは銅鉱石を輸出できなくなってしまう。南ローデシアを経由せずに、ザンビア産の銅鉱石をインド洋岸の港湾まで運ぶための新たな鉄道建設の必要性が一気に浮上してきたのだ。
このタイミングでタンザニアの初代大統領ジュリウス・ニエレレは中国を訪問した。そこで中国当局からタンザン鉄道の建設を提案され、70年に中国・タンザニア・ザンビアの3者間で契約が締結されたのである。それに先立つ67年からタンザニア・ザンビアの両国では社会主義化政策が進められていった。
両国の中国への恭順は、大統領をはじめとする政治指導者たちの服装にも表れていった。植民地時代からの旧宗主国の文化であるスーツ姿から、タンザニア・スーツと呼ばれる人民服風のものを着て公式の場に現れるようになったのだ。
4億ドル超の借款と2万人以上の中国人労働者を派遣
工事に際して中国はタンザニア・ザンビアの両国に合計4億320万ドルの借款を与え、約2万人の中国人労働者が現地に派遣されて、約3万人の現地人労働者とともに働いた。そして76年、中国は完成したタンザン鉄道をタンザニア・ザンビアの両国に引き渡す。これによって、両国は経済の屋台骨を支える資源・銅鉱石を輸出するルートを獲得したのである。
このケースは他のアフリカ諸国からも注目されたはずだ。国連の制裁は対南ローデシアであったが、それによって窮地に立たされたタンザニア・ザンビアを、中国が独自の支援で救った。アフリカで中国の存在感が一気に高まったのは間違いない。