「夫人」の肩書はどう使うべきなのか

明治以来、男性優位で構築されてきた日本社会が根底に持つVIPの妻、「○○夫人」なる立場の女性たちに対する独特の視線は、女性の地位や、女性なる存在に対する価値観を著しく損なってきた。夫の権力を妻の側にも無条件に劣化コピーして渡すことで、それは結果的に「女は(結婚さえうまくいけば)愚かでもいい」との歪んだ社会的合意を生んだ。

自分の手柄ではない、自分の仕事でもない、夫の肩書きに「夫人」をつけて名乗り社交に生きる女性が、ひと昔前までの日本では「いいところの奥様」としてうらやまれたのかもしれない。だがそれを、男女が平等に就職し、結婚出産後も当たり前に仕事を続ける共働き世帯がマジョリティーを占める現代の価値観では、「他人のふんどしで相撲を取る」という。

ファーストレディーの社会的責任、それは「(自分が国民から選挙で与えられたわけではない)“総理の妻”としての知名度を利用しようとチヤホヤ群がってくる民に請われるまま、あちこちに名前を貸して回る」ことではない。

仮にも私たちが参政権を行使した結果としての総理の仕事を邪魔せず、公式の場で配偶者として傍らに立つことを求められるときは「夫人」の顔でその役割をまっとうし、だがその舞台以外では「夫人」の人生ではなく、独立に高潔に自分個人の人生を生きることではないのか。だがそのためには、妻が「夫とは独立した何者かであること」が前提となるのだが。

私が発表したコラム記事は、現代の多くの老若男女から「よく書いてくれた」とのコメント、反響を頂戴した。自民党や安倍首相(当時)への支持者からも、そうでない人からも。保守革新関係なく、同じように思っている人々は多かったのだと、私は知った。

直接届いたメッセージ

すると、当時まさに渦中の人だった安倍昭恵さん本人から、私のSNSへ直接メッセージ(DM)がきたのである。しかもぼんやり生きている私がなかなか気づかないので、間に人を介して「読んでください」とわざわざ知らせてこられるほどだった。

私信となるので詳細は省くが、批判したりまさか脅したりされるではないにせよ「記事を読みました」「どういう方なのかな……と思って」との内容に、もちろんご本人が記事を愉快に思われたわけがないということが伝わってきた。

それで、私は再びひどく失望したのである。

「だから、そういうところなんですけど……」

ウェブであれ週刊誌であれ何であれ、公のメディアに署名で記事なりコラムなりを書いている筆者を「(当時)現役の首相夫人が」ネットで検索し、直接二者間のDMを送ってしまう。

これは匿名のブログ記事ではない。Twitterのアカウントで無責任に好き勝手に吠えているのでもない。公器であるメディアで、きちんと編集者からテーマの打診があり、それに筆者が応えて執筆し、編集者やデスクや編集長、編集部内の校正と内容チェックを経て、「筆者と編集部の調整・合意のもと」、この媒体の正式な記事として世に公開され、原稿料が発生しているものである。