当選金を上回る金額が購入に使われたはずであるから、一回の富突で消費された全金額がゆうに千両を超えることも珍しくない。「一日千両落ちた」と称される芝居町や吉原に勝るとも劣らない数字だった。

そんなマーケットの大きさを反映するように、富突は様々なメディアで取り上げられた。とりわけ、庶民にとって身近な娯楽である落語の題材となることが多かった。

「御慶」というお題の落語は、湯島天神の富突で千両を当てた大工の八五郎を主人公にした滑稽話である。「宿屋の富」や「富久」なども有名だ。それだけ、江戸っ子には身近な「投資話」だった。小説でも取り上げられている。江戸のベストセラーとなった戯作者十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも富突の場面が登場する。

300年前に誕生した御免富、ルーツは宗教行事

富突を興行するには、幕府の許可が必要であった。そのため、富突は「御免富」とも呼ばれた。

幕府公認の興行なので、主催する寺社の名前、富突を行う場所や日時、富札の販売期間などの情報が、町奉行所から江戸の町に向けて布告された。そんな御免富の制度がスタートしたのは今から三百年ほど前、元禄十三年(一七〇〇)頃という。

二千九十九番の富札
二千九十九番の札の持ち主は億万長者になれたか?(「富札」=国立国会図書館蔵)

そもそも富突のルーツは、摂津国簑面の瀧安寺で正月に行われた宗教行事・富法会だとされる。この行事は希望者に牛王宝印の護符を授けるものだったが、その抽選方法が実に変わっていた。

まず、各自の名前が書かれた木札を富箱と呼ばれた大きな箱に入れる。その後、寺僧が箱の上の穴から錐で札を突き、刺さった札に書かれていた名前の者が護符を授けられる仕組みだった。

この方式が、江戸時代に入ると畿内の寺社に広がる。授与されるものが御札から景品、そして金銭に変わっていく。

やがて、江戸でも宗教行事としての富突が行われるようになる。最古参は、谷中の感応寺や牛込の宝泉寺と言われるが、金銭が授与されるようになると、射幸心が煽られるのは避けられなかった。この富突がきっかけとなる形で、それをモデルとした博奕が流行してしまう。

したがって、幕府は元禄期(一六八八~一七〇四)に入ると富突に似た博奕を禁止し、寺社が富突を行うこと自体も禁じた。金銭を授与しては博奕同然とみなしたからだろう。ただし、宝泉寺と感応寺の富突は宗教行事とみなされ、差し止められることはなかった。

「富突」が流行したもう一つの理由

ところが先述のように、元禄十三年に幕府は御免富の制度を導入する。

富突を許可制とすることで、他の寺社の参入を認めた。みずからの懐を痛めないでも済む巧妙な助成策を取ったのだ。

やがて将軍吉宗による享保改革がはじまり、幕府の財政難を背景として支出を大幅に切り詰める倹約政策が断行された。御免富の制度を導入することで、堂舎の修復費の負担から逃れようとしたのである。