こうして、富突は寺社整備の資金獲得を目的とする興行へと変質していく。寺社側にしても短期間に大金を集められる富突は魅力的だった。ただし、幕府も際限なく許可したわけではない。当初はその数も少なかった。

急増したのは、明和三年(一七六六)に芝神明宮に対して富突を許可してからであった。質素倹約をテーマとした享保改革も終わり、射幸心を煽る興行を極力制限しようという意思が幕府内で弱くなっていたことが窺える。

江戸時代の村のイメージ
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その後、享保改革をモデルにして断行された寛政改革では、興行が再び制限されるようになる。御免富の数も減らされたが、寛政改革が終わって文化・文政期(一八〇四~三〇)に入ると、状況が一変する。江戸の社会が爛熟を迎え、化政文化が花開いた時代であった。

文化九年(一八一二)に、幕府が寛永寺からの強い働きかけを受けて、感応寺のほか湯島天神や目黒不動での富突興行を許可したことがきっかけとなり、御免富の対象は拡大されていく。

ちなみに、感応寺、湯島天神、目黒不動での興行は「江戸の三富」と呼ばれ、富突の代表格として喧伝された。興行も毎月行われている。

3カ月で45カ所の富突興行

そして文政四年(一八二一)に至り、年間で寺社十カ所(感応寺は対象外)に富突を許可することが決まる。財政難を理由に、幕府にゆかりのある寺社が助成を執拗しつように求めてきたことが背景にあった。

幕府に修復費などの助成を求める寺社側の切羽詰まった事情は分かるものの、その願いを一々認めていては際限もない。幕府の財政も到底持たない。したがって、富突興行を認める対象を拡大することで、助成を求める寺社の数を減らそうとしたのだ。

御免富を許可された寺社の数は増加していくが、同八年(一八二五)には一気に四倍以上にも増える。年間十カ所から原則四十五カ所を上限として許可したのである(定数に含めない特別枠の寺社もあった)。

回数の増加に伴い、幕府は富突の間隔を調整している。短期間に集中してしまうと共倒れになるからである。

それまでは毎月の興行が通例だったが、四十五カ所まで増やしたことを機に、それぞれ三カ月に一回(年四回)の興行に改められる。一カ月につき寺社十五カ所に富突を認めれば、三カ月で四十五カ所というサイクルになる。

ただし、江戸の三富(感応寺、湯島天神、目黒不動)は引き続き毎月の興行が許された。そのほか、浅草寺と回向院が行った富突も毎月の興行が特別に許されている。

札屋が支えた富札の販売

御免富は主催する寺社の境内で行われるとは限らなかった。

出開帳のように、他の寺社の境内を借りて興行することもあった。地方の寺社が江戸で興行したり、江戸の寺社が京都や大坂で興行する事例もある。なお、富突の会場は本堂や拝殿が使用されることが多かったが、別に小屋を建てる場合もみられた。