人生というのは、何が起こるかわからないものである。実はこの異動こそが、小林喜光にとって大きなターニングポイントとなる。後に小林の経営を支える面々と出会うのもこれがきっかけだった。

三菱ケミカルHD社長 小林喜光 こばやし・よしみつ●1946年、山梨県生まれ。71年東京大学理学系大学院相関理化学修士課程修了。72年へブライ大学物理化学科、73年ピサ大学化学科に留学。74年三菱化成工業(現・三菱化学)入社。96年三菱化学メディア社長、2005年本社常務執行役員などを経て、07年から現職。

その10年後、小林は47歳で、初めて本社勤務を命じられる。情報電子カンパニー記憶材料事業部グループマネジャー(当時は主席)という肩書だった。研究畑一筋できた小林は、当初貸借対照表(B/S)、損益計算書(P/L)を読むことができなかったが、独学で勉強して経営に必要なツールを学んでいった。

その2年後には、子会社の三菱化学メディア(以下、化学メディア)の社長に就任。ここで小林は「営業」というものを初めて手がけることになる。

提携先である米バーベイタム社の外国人幹部を統括する役割も担いながら、利益を出さなければならなかった。小林自ら営業活動をせざるをえない状況に追い込まれたのは、化学メディアが毎年30億円以上、赤字続きの状況だったからだ。

00年、光ディスクなどの化学メディアの累積赤字は、1000億円にも達してしまう。価格の安い台湾メーカーの参入で、CD-Rの価格が暴落したからだったが、ついに本社が、小林に対してメディア事業からの撤退を通知する事態にまで陥ってしまう。小林は決意を固めた。

「2年後の02年1~3月期の営業利益率が、5%を達成できなければ撤退する」と本社に約束し、背水の陣を敷いたのだ。

01年、小林の事業部は、東京・丸の内にあった本社から、東京・田町のビルに移されてしまうが、当時、小林はいつも何かに対して怒っていたという。怒りの先は、会社上層部に対してなのか、赤字を出した己に対してなのか、わからない。しかし、この小林の怒りが化学メディアを、再建へと浮上させていったのだ。