小林喜光は、96年に子会社の社長に就任し、約10年後にはケミカルHDの社長に駆け上がっている。長年指摘されてきた石油化学依存の体質から抜け出すために、異端の小林が社長に選ばれたのだ。企業の再生を託された登板だったが、その船出は嵐の中を行くものだった。
社長就任から8カ月が過ぎた07年12月、三菱化学鹿島事業所のエチレンプラントで、協力会社の従業員4人が火災で亡くなる事故が起こった。その日から、小林は自宅に帰るたびに、夜回りの記者から何度も同じ質問を受けることになる。
「事故の責任をどうお考えですか。いつ辞めるのですか」
辛辣な言葉を聞きながら、新米社長の小林には様々な思いが去来する。
「何で俺のときに……、先輩たちは何をやっていたんだ、現場はどうなっているのか」
そして、一つの答えにいき着いた。
「徹底的に、今の会社を変えるしかない」
開き直った小林は、すぐさま改革に着手し、赤字を垂れ流していた不採算部門を次々に閉じていく。
たとえば71年の設立から39年の歴史を持つ三菱化学生命科学研究所を10年に閉鎖した。基礎研究分野において世界的にも有名な同研究所の閉鎖決定は、社内外で波紋を呼んだ。
先に説明したように、三菱化学の伝統部門である石油化学事業のリストラにも乗り出した。ナイロン原料、塩化ビニール樹脂、ABS樹脂など、約2500億円規模の事業からの撤退だが、生半可な決断ではない。事業撤退を、小林は先輩、OBたちに一切相談することなく決めた。
「会長にも相談していない。『やめておけ』と言われるのはわかっていたから」
このように、不採算部門は容赦なく削減していくが、従業員は切らず全社内的な配置転換で、人を吸収していったのだ。
しかしながら、伝統部門のリストラには軋轢が生じ、ベテラン社員らが本社前で閉鎖反対の声を上げたこともある。部門削減に反対する社員に突き上げられる社長の気分はどのようなものだろうか。
「反対のシュプレヒコールとかこたえたでしょう?」との問いに、小林はこう答えた。
「俺が悪いんじゃねーよ、全部会社のためだと言いたいけどさ。だけども、ブレたことは一度もない」
そして小林は、そのブレない理由を、「揺らぎのない独立した“個”の存在を確立したから」といった。