越智仁は、77年に旧三菱化成工業に入社し、三菱化成発祥の地である福岡県黒崎事業所に配属される。入社直後の担当は、アンモニア課、つまり肥料や無機化学品(以下、無機)を扱う部署だった。
そこで越智は、約20年間、肥料、無機の仕事に従事するが、97年に突然異動を命じられる。まったく畑違いの半導体製造過程の現場、しかも不純物を取り除く高純度の薬品を製造する工場の立ち上げ業務で、場所は、アメリカのテキサス州だった。
時代は最悪で、半導体不況の逆風下。どこからも高純度の薬品など引きがない中で、越智が目をつけたのは、韓国サムスン電子のオースチン半導体工場だった。
当時、高純度薬品の市場といえば、すでに韓国企業や日本の住友化学などが独占し、後発の三菱化学がサムスン電子に参入する余地はなかった。しかしながら、越智は持ち味の粘り強い交渉力で、サムスンを説得し続け、その結果、三菱化学が、高純度の薬品の分野で他社を圧倒して独占するほどに成長させたのだ。
時代は越智を休ませない。アメリカから帰国した越智を待っていたのは、古巣である肥料、無機事業の解体、分離を行う難しい役回りだった。ここでも越智は、肥料、無機の中でも、アンモニアプラント、尿素事業を閉鎖していく。これらは、越智が入社後から廃止が検討されていたにもかかわらず、誰も決断を下せず、赤字を垂れ流していた事業である。
「(古巣に手をつける)寂しさはあったが、3年間くらいかけて利益が確保できるまで合理化していった」
そして肥料、無機を解体後、採算の取れる事業については、子会社である日本化成に売却し、事業再生の道筋をつけた。その後、越智は自ら三菱化学を退社し、日本化成の取締役におさまる。
三菱化学でのキャリアは終了したものと解釈していた越智だが、07年6月に小林喜光から突然、本社への復帰(ケミカルHD兼務)を促されることになる。
「小林さんは当時の僕を、まったく知らなかったはずなのですが……」