小野小町はジビエを好む肉食系女子だった
9世紀(801年)には桓武天皇が「牛を殺して神様に祀っちゃダメ!」(『類聚国史』より)とのお触れを出した。
嵯峨天皇に至っては、あまりに肉食禁止が守られないことにいらだったのか、811年、「農人が酒を呑み肉を食うことを禁じて久しくなるが、これに逆行する傾向なので一層取り締まりを強化する」とのお触れを出していた。
それでも人は肉を食べていた。9世紀半ばに記された『玉造小町壮衰書』によれば、当時の美人女流歌人と言われた小野小町も、鶏、クマ、ウサギ、鹿肉を好む肉食系女子だったという。
その後も幾度となく「肉食禁止」「殺生禁止」のお触れが出されるものの、肉食の記録はそこかしこに残っている。
「日本人は野犬、鶴、大猿、猫を好む」
象徴的なのが16世紀に来日した宣教師たちの記録。かのフランシスコ・ザビエルを含めた宣教師が来日間もないうちは「日本人は肉を食べない。罪悪視すらしている」と本国に報告するが、滞在が長くなると「日本人は野犬、鶴、大猿、猫、生の海草を好む。牛肉は食べないが好む」(1585年、ルイス・フロイスの報告)とその裏側を知るようになる。「食べないが好む」とは、これいかに。どう考えても「食べない(ことになっている)が好む」というカッコ書きが透けて見える。
といっても、表向きは日本人の「肉食厳禁!」は変わらなかった。豊臣秀吉もイエズス会の宣教師を京都に呼びつけ、「人民の大切な牛馬をなぜ食うのか」と問い詰め、「食べたら厳罰」を言い渡したという。
江戸時代に入っても肉食禁止は変わらず、制度上はむしろ厳格化した。1687(貞享4)年以降、何度も生類憐れみの令が発布されるが、その間にも、彦根藩が考案した牛肉の味噌漬けを大石内蔵助が堀部弥兵衛のもとへ「栄養つきますよ!」と贈るなど、肉食禁止が守られたのかはなはだあやしそうな文献が多数残されている。
結局、江戸や大坂で庶民の食文化が花開く18世紀以降、各地でなし崩し的に肉食ブームが沸き起こる。