復路ゴールの大手町で胴上げされる。(PANA=写真)

11年1月2日。3位でタスキを受け取る。1区から4区まで、必死につないで手渡されたタスキだ。前を行く東海大のランナーをとらえ、さらに先頭を行く早大のランナーを抜く。トップに立ち、ガッツポーズでゴールを駆け抜けたが、直後に倒れ込んだ。余力ゼロ、すべてを出し切った走りで、救護室へと運ばれる一幕もあった。

「一番きつかった箱根でした。途中で心が折れそうになって、もういいかな、と思ったりもした。でもここで諦めたらチームのためにも自分のためにもならない。逃げたら一生このままになってしまうと思って、ぎりぎり踏ん張って走っていました」

翌日の復路、東洋大は早大に僅差で逆転され、2位に終わる。3連覇はならなかった。個人的には満足できる走りではあったが、5区でもっと離しておけば……という思いが残る。チームが勝たないと充足感がない。駅伝は団体スポーツ。そのことをあらためて噛み締めた年だった。

柏原が4年生になる前、日本列島は「3.11」の激震に見舞われた。

この日、千葉県富津市で行われていた春の合宿が終了し、帰り道の車中、首都高速で猛烈な揺れを味わった。車は高速から一般道路に降りて鶴ヶ島へと向かったが、寮に辿り着いたころには夜になっていた。

福島地方は地震・津波にプラス、原発事故の災禍に見舞われた。メール・電話も途絶えがちで、家族の無事が確認できたのは4日後であった。いわき市は福島第一原発から離れてはいるが、かけがえのない故郷・福島が被った惨事。以降、募金活動、地元の物産PR展などに積極的に参加してきた。

夏、帰郷した際、被災地を歩いた。沈んだ空気のなか、被災者は苦しんでいた。この地で18歳になるまで育った。ランナー活動のなかでも故郷から随分と励ましをもらってきた。今度はこちらの番だと思う。

ネバリが福島の県民性ともいわれる。事実、自身にも負けず嫌いと諦めの悪さは人一倍ある。復興への道筋はいまだ不透明だが、ネバリがいまほど求められているときはない。自分なりにできることを果たしていきたいと思う。

※すべて雑誌掲載当時

(若杉憲司=撮影 PANA=写真)