なぜ「自殺」ではなく、わざわざ「死刑」を選ぶのか

こうした「死刑になりたい」動機による事件は「死刑存置社会の特徴」であると語るのは、京都大学大学院教育学研究科教授の岡邊健氏だ。

現在、先進国クラブと呼ばれるOECD38カ国のなかで、死刑制度が残っているのは日本と韓国とアメリカの一部の州のみ。死刑があるからこそ成立する犯罪なのである。

もっとも、アメリカで起こる銃乱射事件では、被害者が増えないよう、警察がその場で犯人を撃ってしまう。つまり犯人たちは、それがわかっていて犯行に及んでいるということだ。「射殺」か「死刑」かの違いだけで、「死を求めている」という意味では変わらない。

また岡邊氏は、日本の若年層の自殺率の高さについて「こんな国は日本しかない」と語った。これは「犯罪の少なさと裏返し」であり、アメリカと同じく「異常な社会」なのだと言う。

日本は他国と比べて犯罪率は低いが、だからといって安心して生きられる国とは言えないということだ。

では、なぜ「自殺」ではなく、わざわざ「死刑」を選ぶのか。

こうした無差別殺傷犯は、2001年に起きた「附属池田小事件」の宅間守がはしりだと言われている。元刑務官である坂本敏夫氏は、「これが失敗」だと述べる。

死刑になりたくて殺人を犯した人間を異例の速さで処刑したために、望めば確実に死刑になれることを証明してしまったからだ。

坂本氏は、自殺と他殺の最大の違いについて、無差別殺傷犯には「アピールしたいこと、話したいことがいっぱいある」と指摘した。確かに、自殺では誰にも知られずただひっそりと死んでいくだけだが、大量無差別殺傷事件を起こせば、社会は放っておかない。

事実、毎月続いたこの無差別殺傷事件の連鎖は、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってからピタリと止まった。世界情勢が不安定になったことで、今事件を起こしても注目されないと感じたのかもしれない。

とはいえ、事件を起こす人間を無視すればいいという話でもない。放っておいても、彼らから他殺の願望が消えるわけではないからだ。

監獄
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他殺願望は、どの人の中にも存在している

無差別的に誰かを傷つけたいという願望を持つこと自体、「おかしいことではない」と語るのは、こころぎふ臨床心理センターのセンター長で、公認心理士の長谷川博一氏だ。長谷川氏は、宅間守ら数名の確定死刑囚と面談したこともある人物である。

他殺願望はスペクトラム(連続体)として理解できるものであり、「どの人の中にもゼロに近いくらいだけども、存在している。そして、普通程度にある人と、かなり強くある人まで連続している」と、述べる。

願望を抱えていたとしても、そこにプラスαとして何か作用しなければ、行動化しないということだ。

また、長谷川氏は「どんなことが身に降りかかるかによって、人は何にでもなる」と語った。多くの人びとは、自分のことを「人殺しにはならない安全な人間」だと思っているかもしれないが、そうとは限らないということである。

では、どうすればいいのか。長谷川氏は、自殺の相談窓口として「いのちの電話」があるように、殺人願望に関する相談窓口を設ける必要性について言及した。

それに近いことを行っているのが、「秋葉原無差別殺傷事件」を起こした加藤智大の元同僚であり、友人の大友秀逸氏だ。彼がツイッターのプロフィールにそう記すと、特に呼びかけているわけではなくとも、他殺願望を抱えた人たちからメッセージが届くという。

大友氏は、そんな彼らとメールや電話でやり取りし、相手が望めば直接会って話を聞く。内容のほとんどは「止めてほしい」ではなく「話を聞いてほしい」なのだという。大友氏には、自分自身がうつ病だと気づかず、自殺未遂を繰り返してきた過去がある。

「加藤くんにも俺がそういうことをさらけ出せていたら、親の話とかできてたかもしれないっていうのがある。だから今は極力こういった話でもタブーなく語るようにしています」

誰しも心の奥底には、グロテスクな感情を抱えている。吐き出す場があるだけでも、大きく変わってくるだろう。