「反米反中」で生きろ(2020年8月)

米中の対立はすでにポイント・オブ・ノーリターンを超えた。もはや和解の余地はない。あとは正々堂々だろうが卑怯千万だろうが戦うだけだ。

宮崎学『突破者の遺言』(K&Kプレス)
宮崎学『突破者の遺言』(K&Kプレス)

では、日本は米中の狭間でどうするか。大前提として、私は米中どちらも嫌いである。人間の考えというのは感情が先に来て、理屈は後からでっち上げるものだから、以下の文章も私の「反米反中」感情に理屈をつけたものにすぎない。

私の生まれ育った環境に暴力は身近だった。暴力の場数を踏むうちに、やがて自分の中に単純明快なる暴力論を抱くようになった。強い側が弱い側に振るう暴力はダメだ、しかし弱い側が強い側に振るう暴力はいい、これである。

だから私は大国主義が嫌いである。戦前の日本がアジアを侵略したり、アメリカがベトナム戦争を仕掛けたり、中国が少数民族を弾圧したり力ずくで南・東シナ海をぶん取るのが気に入らない。

若い日本人よ、お前らはガンガンやれ

その中でベトナム民族がアメリカ帝国主義を打ち負かしたのは感動的な出来事だった。だからベトナム民族は好きだが、かといってベトナム国家も好きなわけではない。国家権力は他国に暴力を振るうが、返す刀で国民にも暴力を振るうからだ。要するに国家主義、国家権力が気に食わないのである。

結局、米中の狭間で日本はどうするか。日本民族の独立自尊を追求するならば、「反米反中」の立場に立つしかない。アメリカか中国か選べと言われたら、どちらも選ばず、そのリスクを負うしかない。一部にはアジアの国々と連携して第三極を目指すというアジア主義的な発想もあるようだが、それは思想的には可能でも現実的には不可能だろう。

結局、我々は戦後75年間で胡麻擦り上手、世渡り上手の民族に落ちぶれ、惰性的に対米追従を続けるしかないのではないか。今後も民族の自尊心を持ちえない時代は続いていく。

忸怩たる思いは募るばかりだが、私にはもう「反米反中」に生きる時間と気力が残っていない。しかし若い日本人よ、お前らはガンガンやれ。日本人に生まれたならば仕方がない。「反米反中」に生きろ。それが我々の宿命だ。

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