アメリカに敗北した日本人に欠けているもの

確かにそういう考え方もあるだろう。いわゆるリアリズムだ。だが、これは完全な間違いである。憎きアメリカの核の傘の下に入らざるをえない屈辱感だけは一緒に切り捨ててはならないのだ。それだけは断固として噛み締め続けねばならぬ。

何より、この考え方には「アメリカの核がなければ日本が生き残れない」という暗黙の前提がある。だが、アメリカの核は最大の武器ではないのだ。

日本を守る最大の武器は、日本の国民が国民を思う力だ、国を思う力だ。これもまた民族としての根底的感情である。それがなければアメリカの核があろうが日本が核武装しようが、日本を守ることなどできやしない。逆にそれさえあれば、アメリカの核がなかろうが何がなかろうが、日本を守り抜くことはできる。

戦後日本はアメリカの核に頼った。その結果、いまや日本人はアメリカに対する恨みを忘れ、アメリカの核に頼らざるをえない屈辱感を捨てた。同時に、というかそれゆえに国民が国家を思う力も完全に失った。アメリカに対する恨みや屈辱感という、民族としての根底的感情を手放したがゆえに、同時に、国民が国家を思う力も捨て去ったのである。

ナショナリズムは無責任に煽れないが…

その結果、いま日本人は何をしているのか。アメリカに原爆を投下された日に、アメリカの核の傘の下にいながら、「カクナキセカイ」という綺麗事を復唱しているのだ。これほど情けない民族がいるか。これほど恥ずべき民族がいるか。私は悔しい。悔しくて堪らない。

もはや日本の民族的感性は摩滅している。いまさらアメリカを恨めと言っても時代遅れだろう。アメリカともう一戦やるわけにもいくまい。民族の感性とはナショナリズムに他ならないが、これだけ科学技術が進歩した中でナショナリズムが暴走して全面戦争が勃発すれば、75年前の原爆投下以上に破滅的な事態を招かざるをえない。その意味で、確かにナショナリズムは無責任に煽れるものではない。

しかし、だからと言ってナショナリズムなき民族はありえない。いまの日本人を見ろ。民族としての根底的感情をほぼ失った現代人は、精神を喪失した廃人の如く、何も考えずアメリカにすがるだけではないか。

渋谷のスクランブル交差点
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我々は民族としてアメリカに対する反感だけは持っているべきだ。それがなければ日本人とは言えぬ。私はそう思っている。