民族主義は理論では決して血肉化されない

私とてベトナム反戦運動、反基地運動に加わった経験はあった。だが、それは「米帝国主義はベトナム革命を潰すために侵略戦争を仕掛け、無辜の人民を殺戮している。北爆の米軍機は在日米軍基地から飛び立っている。

我々は日越の独立と平和のために反基地闘争を展開し、米帝国主義を打倒しなければならぬ」という理屈から生まれた運動にすぎなかった。目の前で親類縁者が殺される現実から生まれたもの、戦わなければ殺される生活に強いられたものではなかった。だから私の目は、あの目ではなかった。

民族主義は現実的生活において──そしておそらくは独立闘争という現実的生活において最もよく──発見されるものだろう。民族主義は現実的生活に根ざして肉感的に捉えられなければならない。全生命を懸けて戦わざるをえない必然性が身体から出てこなければ、民族主義は血肉化されない。

その基盤から遊離した時、民族主義は脈打つ思想から単なる学術用語、空疎なイデオロギー、あるいは偏狭な排外主義に堕落するのだろう。学者や運動家、排外主義者は民族主義者ではない。「民族主義者」の目は輝いている。民族とは、その目だけが明らかに見ることができ、その目だけに映るものなのかもしれない。

「アメリカへの恨み」を捨ててはならない(2020年2月)

原爆投下75年である。毎年広島と長崎で開催している平和記念式典では「唯一の被爆国として核兵器なき世界に向けて努力する」という決まり文句が聞かれるが、はっきり言う。アメリカに対する恨みはどこへ行ったのか! 毎年8月に神妙な様子で「核なき世界」を訴える同胞の姿を見るにつけ、アメリカに対する復讐ふくしゅう心を失った日本人に嫌悪感さえ抱く。

アメリカは未曽有の大量破壊兵器を無辜の市民に向け、彼らを一瞬のうちに虐殺した。我々日本人はとんでもない目に遭わされたのだ。少なくとも原爆投下において我々は虐殺された側である。なぜ怒らないか。なぜ恨まないか。それは民族としての根底的感情ではないのか。

戦後、日本はアメリカの核の傘の下に入った。現実政治の中において国家は何が何でも生き残らねばならぬ。そのために利用できるものは全て利用すべきである。「憎きアメリカの核の傘の下に入れるか」などという建前論は甘ったれた幼稚な態度として切り捨てねばならぬ。