「母は、子どもの人生の背景にすぎない存在」
この基本的な信念の源のひとつが、20世紀に治療院に端を発し人気の論説へと発展したジークムント・フロイトの哲学である。フロイトの研究は、母はそれ自体が人ではないと主張するだけでなく、母自身はそのことについて何もできないと明確に主張している。
彼の研究では、母は他者の機能としてのみ存在する。母子の関係においての母自身の経験は常に消されているのだ。母を主体と見なさないことは、母を子どもの感情的発達の中心的で本質的な役割に充てるとともに、子どもの人生の背景にすぎない存在と位置付ける。母は、存在すると同時に存在しないものなのだ。
「他人の人生に溶け込むこと」への抵抗
したがって、母になったことの後悔とわが子の誕生を後悔することの違いを主張することは、後悔についてのみの話ではない。主体であると見なされるために、与えられた機能から自身を分離しようとする女性の根本的な闘いをも映し出しているのだ。
主体性を要求するのは、後悔する母に限ったことではない。何十年もの間、学者や作家は、あらゆる母が主体として──他人の人生に溶け込んでアイデンティティを失ってしまうのではなく──認識される道を切り拓こうと努めてきた。これは、多くの女性が出産を経験し、母になることを根本的で触媒的な自己の危機として経験する社会的現実においては困難であり、特に女性は他人の人生に溶け込むことが正しい母の道だと言われることが多いのだ。
タマール・ハガルは次のように書いている。「この社会的期待を知識としては認識していたが、出産後の最初の数日の間に気がついた。今後私は、痛みや感情や欲望や願望を持つにもかかわらず、無制限の期間、自分自身を脇に置いて、自分自身を衰弱させ、姿を消し、抹消されることが期待されるのだと」。
この文脈では、母になったことを後悔する女性の物語は、そのパズルに追加されたピースと見なすことができる。彼女たちの後悔は、母が考え、感じ、欲望し、夢を見て、記憶する主体であるということを社会が忘れることを許さないのだ。