「得たものが失われていく」ことには苦痛がある

スタグフレーションは国際的な外部要因と政治的リスクが合わさって起きるもので、庶民にできることはきわめて少ない。過去にはオイルショックがまさにそうだっただろう。スタグフレーションに市民一人ひとりができるミクロな努力は、せいぜいお金に対する考え方を変えてやり過ごすこと、とりわけ「お金があるから幸せである」という考え方から一定の距離を取ることだ。

だが問題は、オイルショックの時代とは違って、現代社会は多くの人が相対的に豊かな生活をしていることだ。人間は「これから得られるはずのものが得られなくなる」ことよりも「すでに得ていたものが失われていく」ことの方が――たとえ最終的な着地点は両者とも同じだったとしても――耐え難い苦痛を感じる。がらりとマインドセットを変えて「相対的な剝奪感」を克服していくのは至難の業になる。

矢印の形に集合する群衆
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欠落感から懲罰意識が生まれ、世の中全体がギスギスしていく

人にとって「得ることをあきらめる」よりも「一度得たものを手放す(奪われる)」ほうが、はるかに難しい。「豊かさの再考」は、たしかにスタグフレーションの時代における重要なテーマのひとつとして、これからメディアでもしばしば言及されるようになるだろう。しかしながら、楽ではない。多くの人にとって想像以上の苦痛をともなう作業になる。たとえば衣食住の上質さにこだわっていた人は、そのこだわりを棄てなければならないのは、体の一部が欠落したかのような喪失感がある。

自分の大切ななにかが欠落していくような痛みは、知らず知らずのうちに心をささくれ立たせ、世の中が全体的にギスギスしていくようになる。自分が欠損しているのに、なんの欠落もなく「のほほん」と生きている人間をみると、それだけで暗い感情が湧き上がってくる。だれもが自分の倫理性や社会適応度にこだわりながら、「倫理的でない者」「不当な金儲けをしている者」に対する激しい嫌悪感や懲罰意識を持ち、実社会でもネットでも「炎上」が続発していることは、おそらく偶然ではないだろう。