「遊廓言葉」の一部は後に上流階級の山の手言葉に

初期の遊女は三味線、唄、踊りも得意でしたが、すでに述べたように、次第に芸能の分野は芸者に任せるようになりました。その結果、吉原芸者は他のどこの芸者より優れた芸人になったのです。

しかし芸能をおこなわなくなった後も、遊女は和歌、俳諧、漢文などの文学的な能力があり、文人たちとそういう話もできましたし、着物の上に武家の女性のような打ち掛けをつけました。つまり正装をしていたのです。

また独特の語尾を持つ人工の遊廓言葉を話しましたが、その中で「ざんす」「ざいます」などは後に上流階級の山の手言葉になります。教養高く優れた人柄の遊女がたくさんいて、文学にも書かれました。

「床上手」が意味していたこと

「床上手」ということも遊女の大事な要素でした。ここでは、井原西鶴『好色一代男』と『諸艶大鑑(好色二代男)』に登場する遊女を何人か見てみましょう。

野秋という遊女については、「一緒に床に入らなければわからないところがある」と書いています。肌がうるわしく暖かく、その最中は鼻息高く、髪が乱れてもかまわないくらい夢中になるので、枕がいつの間にかはずれてしまうほどで、目は青みがかり、脇の下は汗ばみ、腰が畳を離れて宙に浮き、足の指はかがみ、それが決してわざとらしくない、と。

もうひとつは、たびたび声をあげながら、男が達しようとするところを九度も押さえつけ、どんな精力強靱な男でも乱れに乱れてしまうところだ、と。さらに、その後で灯をともして見るその美しさ。別れる時に「さらばや」と言うその落ち着いたやさしい声。これが遊女の「床上手」の意味でした。

初音という遊女は、席がしめやかになると笑わせ、通ぶった客はまるめこみ、うぶな客は涙を流さんばかりに喜んだそうです。床に入る前には、丁寧に何度もうがいをして、ゆっくり髪をとかし、香炉で袖や裾を焚きしめ、横顔まで鏡に映して気をつけました。

世之介(『好色一代男』の主人公です)が眠っていると、「あれ蜘蛛が、蜘蛛が」と言ったので世之介は起きてしまいました。すると「女郎蜘蛛がとりつきます」と抱きついてきて肌を合わせ、背中をさすり、ふんどしの所まで手をやって「今まではどこの女がこのあたりをさわったのかしら」と言います。西鶴は、かけひきが類まれな床ぶりだ、と書いています。