「マスク真理教」の信者たちはファンタジーを信じ続ける

続いて(2)の「マスクをしない人」についてだが、そもそも日本人のマスク信仰が過剰すぎるのだ。都会の街中を見回してみると、体感値で99.5%はマスクを着用しているのではないか。こうした光景はここ2年ほど、まったく変わっていない。

2020年6月10日、非常事態の期限が切れた後、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをする人々
写真=iStock.com/Fiers
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マスクをしない人間は日々、ツイッター上で猛烈な批判に晒されているが、先日、こんな趣旨のツイートをしているユーザーがいた。

〈まともな知識や常識がある人は「マスクをするのは他人にうつさないため」ということを知っている。対してマスクをしない人間は、禁煙ゾーンでも平然とタバコを吸う人や、大麻解禁論者と同じようなもの。ワガママ過ぎるし自己中心的過ぎる〉

ぜんぜん違う。マスク着用は義務ではないし、法律や条例で規定されているわけでもない。にもかかわらず、マスク推進派のなかにはマスク非着用者を叩くためならば法律違反の行いすらも例として持ち出し、「同罪だ」と極悪人扱いしてくる人が少なくない。

マスクを99%超の人々が着用していても、人口の80%ほどがワクチンを2回接種しても、結局、第6波では史上空前の陽性者数を記録した。しかしながら、マスク推進派は本気で「1%以下のマスク非着用者が感染を広めている」というファンタジーを信じ続けている。「あなたは着けているのだから、それでよいのでは? オレに強要しないでください」と言えば、「あなたと私、2人が着ければより安全になる」と返してくる。これはもう「マスク真理教」である。

情弱に合わせて良識のレベルを下げる必要はあるのか

マスクをしない人間はこれまで「殺人鬼」「感染しても病院にかかるな」「公衆衛生の敵」「日本から出て行け」「死ね」「異常人格者」「社会の風潮やマナー、店が決めたルールに従えないワガママかつ反社会的な人物」などと散々な言いようで批判され続けてきた。

その根底にあるのは、2020年3月26日に東京都の小池百合子知事が明言した「無症状の若者が高齢者にうつしている」という発言であろう。これが、現在まで続くマスク信仰の流れを形づくる決定打だった。その後、アベノマスクの配布や専門家たちによる啓蒙(洗脳⁉)も追い風となり、マスクは“完璧な防具”として崇められることになる。並行して、マスクを装着しない者を白い目で見る風潮も高まっていった。

とはいえ、その効果について本気で信じている人は、実際のところそこまでいないのでは……とも思うのだ。

人々が必死になってマスクを着け続けているにもかかわらず、陽性者は増えるばかりの状況下、電車や飛行機、商業施設のアナウンスで聞かれるようになったのが、次のようなフレーズだ。

〈他のお客様の安心のために、鼻と口を覆うマスクの着用をよろしくお願いいたします〉

「安心」とは、どういうことだ? マスク着用の目的として「大切な誰かを感染させないため」という建前が真っ先に掲げられていたときは、まぁ「健康」に関する事柄でもあるし、要求される場所では1000歩譲ってマスク着用をやむなく受け入れる気にもなれた。しかし「他のお客様の『安心』のため」というのは、もはや単なる感情論にすぎない。

情報弱者(情弱)の愚かな思考や感情に配慮して、皆で良識のレベルを下げ、バカげた行為に付き合う──そんな状況ではないか。こうなってくると、現在のマスクに関する取り組みは「社会の目」を最大の行動規範とした場合の大衆心理を探る、壮大かつ滑稽な社会実験のようにも映る。