この頃からメディア対応は高圧的だった

状況から見て、暗殺計画だった可能性が強い。カジノを統制したことで、プーチンは敵を作り、敵は家族を殺そうとした。

プーチンはその後、ベッドの横に空気銃を置いて寝たという。「命を守ることは無理でも、少しは気が落ち着く」と友人に話した。マフィアが跋扈した九〇年代のロシアで、高級官僚が狙われるのは珍しいことではなかった。

プーチンは副市長として、一時期広報も担当したが、メディア対策は極めて高圧的だった。新聞編集長にアパートを提供するなど、記者に高価な贈り物をする一方で、露骨に脅迫することもあったという。プーチンがクレムリンで推進するメディア抑圧のルーツもペテルブルク時代にあった。

二流スパイ、無職を経て連邦保安局トップに

プーチンのボス、サプチャク市長は、九六年の市長選に再選出馬したが、対立候補との泥仕合の末落選。選対本部長だったプーチンはこれを機に市役所を去り、モスクワの大統領府に転職する。

「市長選に敗れてから二、三カ月が過ぎたが、私はまだ無職だった。それは好ましい事態ではなかった。家族を養うために、何かをしなければならない。大統領府で働かないかと声をかけてくれたのは、大統領府総務局長のパーベル・ボロジンだった。彼とはそれまで数回会っただけだ。モスクワに出てきた時は何のコネもなく、頼りになる友人もいなかった」

このモスクワ行きが、ロシアの歴史を変えることになる。経済危機が続く九〇年代のロシアでは、公務員の待遇は良くなく、エリートは出国したり、民間での起業に没頭。政府に有能な人材が枯渇していた。

総務局次長としてクレムリンに入ったプーチンは、翌年大統領府副長官兼監督総局長、九八年に大統領府第一副長官ととんとん拍子に出世。同年連邦保安局(FSB)長官に就任した。KGB時代は中佐止まりで、スパイとしては二流だったプーチンが、KGB後継機関のトップとして返り咲いたのである。

「監督総局長の仕事はつまらなくて、辞めて法律事務所を開くことも考えた。辞めなかったのは、第一副長官に任命されたからだ。今でもあれがいちばん面白い仕事で、地方の知事らと親交を結んだ」
「FSB長官への任命を聞いた時、うれしいとはとても言えない気持ちだった。私は同じ川に二度も足を踏み入れたくなかった」

エリツィンの窮地を救い、権力中枢に入り込む

FSB長官時代の九九年三月、プーチンがエリツィン大統領の娘タチアナや夫のユマシェフら「ファミリー」の窮地を救ったのは、有名なエピソードだ。

ファミリーの汚職疑惑捜査を陣頭指揮したスクラトフ検事総長によく似た男が、売春婦二人と性的関係を持っている盗撮ビデオがテレビで放映された。プーチン長官は「鑑定の結果、男が検事総長であることが確認された」と発表。検事総長は退陣に追い込まれ、ファミリーは危機を脱したのである。