孤独と向き合うにはどうすればいいのか。実業家の堀江貴文さんは「結婚から2年で離婚した僕は、初めて自分の弱さに直面した。しかし、離婚や刑務所での暮らしを経て気づいたことがある」という――。

※本稿は、藤田晋、堀江貴文『心を鍛える』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

堀江貴文氏
撮影=HARUKI
堀江貴文氏

誰もいない家が怖くてバーに通う日々

「孤独」に悩む人は多いようだ。どれだけネットが普及し、SNSが隆盛になっても、リアルでの温かい人間関係は必須なのかもしれない。しかし、「孤独」とは各人が自力で乗り越えるべきものだと思う。

僕が味わった人生最大の孤独と、それを乗り越えた方法について話してみたい。

1999年、27歳で結婚した僕は、2年後の29歳で離婚している。

離婚直後の寂しさといったらなかった。妻と子どもが出ていった後の、1人で住むには大きすぎる殺風景な一軒家。寂しさを紛らわしたくて、友達を呼んで騒いだり、知り合ったばかりの女性を連れ込んでセックスしたりしてみたこともある。でも、彼らがそれぞれの居場所に帰ると、僕はすぐ孤独に襲われた。そうなると家に帰るのが怖くなってくる。酔いつぶれるまでバーを飲み歩く日々が続いた。

僕は、こんなにも孤独に弱かったのか

素面で帰宅しても、家には誰もいない。イヤでも孤独と向かい合わねばならなくなる。そんな恐ろしいことはない(と、当時は思っていた)。

当然ながら、食事や睡眠は不摂生になる。自分の“心の弱さ”には参った。「ダメだなぁ」と自覚はできるけれども、どうしようもない。

離婚直後は、近所のバーに毎晩通っていた。もはや「惰性」である。バーのマスターに「最近、皆勤賞ですね」と声をかけられたときは、我ながら自分自身のことを「イタい」と思った。「家族って意外と楽しかったんだな」と、酒をあおりながら感じた。

何よりつらかったのは、自分の弱さに直面したことだ。離婚前、仕事に没頭していた頃は、自分の弱さなんて感じたことがない。「僕は、こんなにも孤独に弱かったのか」と、久しぶりに自己嫌悪に陥った。

「自分以外の何か」に依存し続けていいのか

ある日、何気なく開けた引き出しから、幼い我が子の写真が出てきた。写真を持つ手や膝が震えたのを覚えている。その子にはもう会うこともないし、会ってはいけない。頭では重々わかっているが、感情は大きく揺さぶられた。

でも、その写真のおかげで強くなれた。孤独から逃げることをやめて、正面から向き合おうと思えたのだ。

孤独だから、寂しいからといって、周りの優しい人たちやアルコールに救いを求め続けていたら、一生「自分以外の何か」に依存し続けることになる。この孤独は、僕が引き受け、新たな人生に歩み出すべきなのだ。そうでないと、何のために離婚をしたのかわからない。別れた家族に申し訳が立たないではないか。