背景にあるのは「過剰なまでの自己責任社会」
孤独死には、社会的孤立の問題が関連している。ひきこもっていた時代の私のように、自分たちで全てを背負い込もうとした結果、家族そのものが社会から孤立し、命を落としてしまう、そんな事例を取材でたくさん見てきた。
その背景にあるのは、過剰なまでの自己責任社会ではないだろうか。自分のことは自分で何とかしなければならない。家族の問題は、家族の中で何とかしなければならないという、無言の圧力ではないだろうか。
ひきこもり時代の私が抱いていたようなそんな思いや孤立感を一家は抱えていたのではないか。日本社会を覆う「自己責任」という病理が、人々を孤立というブラックホールに追い込むのだとすれば、しわ寄せがくるのは、声を上げられず、上げるすべすら知らない、社会的に最も弱い立場の人たちだ。深刻化する同居孤独死は、それは一人暮らしだろうが、家族がいようが、究極を言えば関係がないということを現している。
しかし本来であれば、それは家族や本人だけの問題でなく、私たちの社会全体で支えるべきだという認識が必要なのではないだろうか。
そんな現状がようやく理解されたこともあり、わが国ではコロナ禍において、イギリスに次いで二番目に孤独、孤立担当大臣が設置された。そして、内閣府は令和3年12月28日付で「孤独・孤立対策の重点計画」を策定した。
誰もが社会的孤立に陥る可能性がある
その中で、「孤独、孤立は、個人の問題ではなく、社会環境の変化により当事者が孤独・孤立を感じざるを得ない状況に至ったものである。孤独・孤立は当事者の自助努力に委ねられるべき問題ではなく、現に当事者が悩みを家族や知人に相談できない場合があることも踏まえると、孤独・孤立は社会全体で対応しなければならない問題である」
という基本的考え方を打ち出している。
孤独死の現場を長年取材してきた者として、この基本方針を私は大いに歓迎したい。孤独・孤立を巡って、まだまだ国の取り組みは始まったばかりだ。経済や社会状況が激しく変化し、不安定になる中で、誰もが社会的孤立に陥る可能性がある。だからこそ何らかのセーフティーネットを早急に整備しなければならないと思う。こういった国を挙げての取り組みはもちろんだが、同居孤独死の背景にある、社会的孤立の問題に多くの人たちが目を向け、最も弱い立場の人たちが、誰一人として取り残されない社会になるよう、願ってやまない。