「この幸福感の前には后の位も何になろう」

千年前に書かれた『源氏物語』が、今も本屋の店頭で新刊として手に取られています。菅原孝標女の『更級日記』には、読みたいと願い続けていた『源氏物語』をおばから贈られたときの感動と興奮がありのままに綴られています。

それを戴いて帰るときのうれしさは天にも昇る心地だった。今までとびとびに読みかじって、話の筋も納得がゆかず、じれったく思っていた『源氏物語』を一の巻から読み始めて、邪魔も入らずたった一人で几帳きちょうの内に伏せって、櫃から一冊ずつ取り出しては読む気持、この幸福感の前にはきさきの位も何になろう。(『新編 日本古典文学全集26』)

1000年前から読みたい本を読む喜びは変わっていません。菅原孝標女の言葉を追いかけていると、本は何かのために読むのではなくて、楽しくて楽しくて、ページをめくるのがとまらなくなるから読むのだと、読書の出発点に何度でも立ち返ることができます。

本との出会いは本当に「偶然」なのか

何より素晴らしいのは、菅原孝標女が読むのをとめられなくなったその本が、今も本屋の店頭や図書館で、気軽に手に取れることです。しかも、日本だけでなく、世界中で。

私たちはよく「偶然」本と出会います。しかしそれは本当に「偶然」なのでしょうか。

作家ミヒャエル・エンデは、『M・エンデが読んだ本』で、読者に問いかけました。

あなたが人生の岐路で悩んでいるとき、ちょうどぴったりの瞬間に、ちょうどぴったりの本を手にとり、ちょうどぴったりの箇所をあけ、ちょうどぴったりの答えを見つけるなら、あなたはそれを偶然だと思いますか?

私が、今回探求してみたいと願ったのは、なぜ人生には本が必要なのか、です。

私たちがたまたま立ち寄った本屋で、一冊の本と出会うことができるのは、本当に偶然なのでしょうか。