なぜコロナ禍の日本では「自粛警察」が現れたのか。早稲田大学文学学術院教授の石田光規さんは「現代は社会や他者に迷惑をかけた人が激しく攻撃される時代だ。この攻撃は、特に“ソト”の人に対して強くなる傾向がある」という――。

※本稿は、石田光規『「人それぞれ」がさみしい「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。

ビールで乾杯
写真=iStock.com/bee32
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「禁止されてるわけじゃないから、人それぞれ」

※以下の事例は、お店等での飲酒が認められているときを想定しています。

新型コロナウィルス感染症の流行とともに、世の中には自粛ムードが漂っている。しかし、バッハ(ハンドルネーム)には、ウィルス騒動など、どこ吹く風だ。今日も、飲み会の約束がある。

「いよ~っし! じゃかんぱ~いっと、はいちょっとじっとしてて」

バッハは乾杯の動画を撮り、さっそくSNSにあげる。「おいおい、こんなご時世に、そんな動画あげて大丈夫か?」

コーツ(ハンドルネーム)は周りの反応が少し気になるようだ。「平気平気、おまえらの顔は隠しておいたし、別に禁止されてるわけじゃないんだから、人それぞれじゃね?」

インフルエンサーとして名をはせたバッハにとっては、自粛よりも、動画をもとにした収入のほうがはるかに大事なのだ。「それよりも、この『愛推し』(カクテル名)飲んでみな。色はすごいけど、味はなかなかだぞ。動画でも映えるし」

「本当だ。五色もある。でもうまいな」コーツもコロナのことは忘れて「愛推し」に夢中だ。

数日後、コーツがあわてた様相で連絡をしてきた。何かあったようだ。「お前、ネット見たか?  すげぇことになってるぞ。マじ、やばいって」

言われるまま、ネットを見ると、サイトには飲み会動画を批判する言葉が並んでいる。「こんな時期に飲み会をするヤカラは罰せられるべし」

「われらが社会的に制裁を加えよう」「こういったアホが世の中に迷惑をかける」

自宅の写真までさらされてしまったバッハは、騒動の後、すっかりおとなしくなってしまった。

「人それぞれ」が許されないゆえに生じる萎縮

私たちは「人それぞれの社会」を生きているといっても、「人それぞれ」に何をやってもよいわけではありません。本書の第三章では、社会的ジレンマについて簡単にふれました。

そのさい、社会的ジレンマを防ぐには、個々人の行動を引き締めるルールが必要になると話しました。しかし、「人それぞれの社会」のルールは、ときに「正義の刃」となり、ルールを破った人を激しく切りつけます。

それゆえ、人びとは「人それぞれの社会」に生きているにもかかわらず、どことなく萎縮した心持ちになる、という矛盾した状況に追いやられます。

この事例は、「人それぞれ」と思って行動した主人公が、一線を越えてしまったために窮地に陥る話です。辛い経験をしたバッハさんは、その後、すっかり萎縮してしまいました。このようなケースは、「人それぞれ」が許されないゆえに生じる萎縮と言えるでしょう。