ラブストーリーからストーカーまがいの事例まで

春秋戦国時代の『詩経しきょう』でも、漢魏南北朝時代の『玉台新詠ぎょくだいしんえい』でも、恋の場所として歌われているのは東門である。なぜ東かはよくわからず、後者は前者をマネたものであろう。

じっさいには、東門でのみ逢瀬おうせがなされたとはかぎらないが、たとえば繁欽はんきん(?〜218年)の詩をみると、東門のそばで男性が女性をナンパし、そのまま女性のほうが恋慕れんぼの情を抱いている(*11)

いとしの男性からのプレゼントはたいせつにし、男性の置いていった衣服の残りをかいで、別離を悲しむ女性もいた。また城のそばで逢引あいびきする例もある(*12)

ストーカーまがいの例もある。後漢末に郡太守の史満しまんのむすめが、父の部下に恋をした。そこで部下が手を洗った水をもってこさせ、それを飲んだところ、子どもを身ごもったという伝説がある(*13)。さも美しい伝説のように記録されているが、けっこうなヘンタイである。

結婚まえの男女の恋愛は、必ずしも法律によって罰せられるものではなく、そうした感情をおしとどめるのも、現実に不可能である。ただし、年若き未婚男性がいくら女性に手を出そうとも、それほど批難の対象とはされなかったのにたいして、女性に浮いた噂は禁物である。

身分を越えた結婚もむずかしく、金もちの貴公子に惚ほれてもつらいだけであろう(*14)

“逆ナンパ”から集団プレイに発展する場合も

城外の小道を歩いてゆくと、小川が流れており、木漏れ日のもとで男女が愛を語らっている。手をつなぎ、つれだってここまでやってきたのであろうか(*15)

柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書)
柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書)

春秋時代には、女性のグループが男性のグループに声をかけ、いわゆる「逆ナンパ」をして、川の岸辺で集団プレイにおよんだ例もあるので(*16)、上記の男女もそのまま人目のつかぬ川辺でイチャつくつもりかもしれない。

もっとも、秦漢時代には、未婚の男女の性交にたいする目も少しきびしくなっており、さすがに現場を押さえられれば罪になりかねない(*17)。しかも、なにごとにもタテマエとホンネがある。

婚前の男女関係には儒教的な制約がある。前漢後期になると、儒学はとくに官学として重んじられ、儒教によるタテマエは民間にも強い影響力をもちつつあった。儒教では夫婦でさえ、私室・衣服掛・タンス・お風呂はべつべつにすべきであるといったルールがあり(*18)、まして未婚の男女が手をにぎるなどもってのほかである。

川で溺れている兄嫁にたいして、弟が手をさしだしてよいかが話題になるほどの世界なのである(*19)。うら若き男女が、父母や媒妁人ばいしゃくにんのことばをまたずに、塀や壁に穴をあけて相互にのぞきあったりするだけでも怒られた(*20)。やはり恋愛は隠れてするほうがよい。

(註)
(*1)張競『恋の中国文明史』(筑摩書房、1997年、11〜125頁)。
(*2)『玉台新詠』巻4鮑照「採桑詩」。
(*3)『説苑』巻第9正諫篇。
(*4)『玉台新詠』巻2傅玄「和班氏詩」、『玉台新詠』巻4顔延之「秋胡詩」。
(*5)『列子』説符篇、『列女伝』巻5節義伝9魯秋潔婦条。
(*6)『列女伝』巻6辯通伝6阿谷処女条。
(*7)『』国風邶風新台。
(*8)『詩経』国風鄭風。
(*9)『詩経』国風召南、『楽府詩集』巻16鼓吹曲辞1「漢鐃歌十八首之十二・有所思」。
(*10)『史記』巻69蘇秦列伝。『荘子』雑篇盗跖篇にも同文がある。
(*11)『玉台新詠』巻1繁欽「定情詩」。
(*12)『玉台新詠』巻7皇太子簡文「北渚」。
(*13)『搜神記』巻20第262話。
(*14)『詩経』斉風甫田。
(*15)『玉台新詠』巻3楊方「合歓詩」。
(*16)『詩経』国風鄭風。
(*17)劉欣寧「秦漢律令中的婚姻与奸」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』第90本第2分、2019年、199〜249頁)。
(*18)『礼記』内則。
(*19)『孟子』離婁章句上。
(*20)『孟子』滕文公章句下。

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