野田は著書『民主の敵』で「高校生のときに起きたのが田中金脈問題」「受験勉強中にロッキード事件」と振り返る。大学時代、新自由クラブの活動にボランティアで参加した。「能動的に政治を変えたいという思いが芽生えつつあった私の心を揺さぶった」と書き記している。
大学4年の79年、松下政経塾の一期生募集を知り、応募した。松下電器産業(現パナソニック)の創業者、松下幸之助が「新しい国家経営を推進していく指導者育成」(松下政経塾のメッセージより)のために私財70億円を投じて設立した。応募者は906人もいたが、23人の合格者の中に入った。
同じ一期生の鈴木康友(現浜松市長。元衆議院議員)が思い出を述べる。「自己主張の強い連中の中で、余分なことは喋らない人だった。朝日新聞とNHKに合格していたが、政治と関わりを持ちたいと思って政経塾にきた。『金権千葉の風土を変えたい』と話していた」
幸之助の秘書だった江口克彦(後にPHP総合研究所社長。現参議院議員。みんなの党最高顧問)は、牛尾治朗(ウシオ電機会長。松下政経塾相談役)とともに入塾試験で面接を担当した。
「牛尾さんが『選ぶ基準は』と聞くから幸之助さんに尋ねたら『運と愛嬌やな』と言った。野田君は運も強そうだし、愛嬌もあったといえる。面接では淡々と、しかも思いを込めて日本の将来を語った。一軍の選手にはなれると思った」