アイデンティティを捨て成長した無印

図が示す第二は、会社と生活者は互いにブランドを通じて成長する可能性である、ということだ。両者は、ブランドを媒介として互いに交流しあうことで互いの理解は深まる。それを通じて、会社は生活者の理解がいっそう進む。

また生活者も、ブランドについてだけでなくブランドが提案する生活スタイルについての理解も深化する。それは、学び成長することでもある。

第三に、その間にあって、ブランド自体も成長し充実する。そのことが意味しているのは、ブランドの基本的性格(アイデンティティ)さえも変容するということである。

たとえば、無印良品でいえば、最初は「わけあって、安い」という標語でもって市場に登場した。しかし、その後、生活者との交流の中で、「自然」が売り物になり、現在に至っては「シンプル」という抽象的な概念を提唱する。最初にあった「わけあって、安い」という標語は今では前面には出ない。アイデンティティさえも消えることがあるのである。

ブランドは、決して不変の性格を持つ確固とした存在ではない。それは何も、無印良品だけではない。ブランドのロゴや意匠などの使い方にうるさいと言われる、海外有名ブランドでも基本的性格は変容する。ブランドにとって大事なことはただ一つ、「ブランドらしさ」である。

ブランド経営者は、そうしないと、ブランドが年をとってしまうので、常に何か新しい試みをする。ブランドの新商品の発売、あるいはシーズン・キャンペーンの開始などがそうだ。

そこにおいて、経営者が最後に問う質問は「それはブランドらしいか?」である。あるいは、生活者がブランドの新しい試みに対して不満を抱くのは、「それがブランドらしくないから」である。

たとえば、ネスレは、キットカットブランドについて、「キット勝つ」に引っ掛けて、「桜咲くキャンペーン」を何年ものあいだ、継続的に展開して大成功を収めた。だが、この試みも、悪くすると「語呂合わせでマーケティングか。キットカットらしくない」とキットカットファンにソッポを向かれた可能性だってあったはずだ。

しかし、今では、「願い」に絡んだ新商品や新キャンペーンは、キットカットにふさわしいと言われるだろう。そう、「ブランドらしさ」は時間とともに変わる。

ブランドは、渦のイメージで掴むとよい。「願い」という言葉が今は渦の中心にあり、それを巡って会社側からあるいは生活者側からエネルギーが集まってくる。しかし、渦には渦の動きがあり、知らぬ間に軸をずらして動いていく。もしかすると、しばらくすると、「願い」という軸は、渦の外にはじき出されてしまっている可能性だってある。

アングロサクソンから伝わってくるブランド概念は、硬い概念である。アイデンティティとか、統一性とか、普遍性とかが、常に強調されている。しかし、ブランドは、会社の思うようには動かない。そもそも、多様な可能性に開かれている存在なのである。

山崎正和氏が、昔、硬い個人主義の概念に対抗するように、「柔らかい個人主義の誕生」を論じた。ブランドについても同じように、硬い、絶対的な中核部分を持った存在として考えるのではなく、多面的な仮面を持って現実に姿を現す存在と考えてみてはどうだろうか。

(平良 徹=図版作成)