「お父さんは人を殺す仕事をしてるの?」と言われたらどうするか

日本の死刑に話を戻すと、2018年7月に13人の死刑が執行されました。すべてオウム真理教の元幹部です。

当時の確定死刑囚117人のうち、なぜこの13人だったか。彼らは死ぬ前にどんな言葉を残したのか……。法務大臣はプライバシーを盾に何も答えなかった。私には疑問でした。確かに彼らは憎むべき罪を犯した。同時に、ある意味では、オウム真理教は社会が生み出した団体とも言える。

国家の名の下に、合法的に死刑を執行するわけでしょう。彼らが残した最期の言葉は社会に向けられたメッセージが込められているかもしれない。それを隠してしまうことは、ひとりの人間としてだけではなく、社会的な意味でも存在を抹殺することになるのではないか。本当にそれでいいのか……。そう思わずにはいられませんでした。

とはいえ、私は死刑廃止をことさら訴えたいわけではありません。死刑制度をどう考えるべきか。現場を取材してみて、賛否以前に、考える土壌が必要だと感じました。だからこそ、死刑囚だけではなく、死刑に直面する人たち——死刑囚の身の回りの世話や食事の準備、掃除などを行う衛生夫、刑務官、死刑囚の家族、弁護士、教誨師、法務官僚、被害者家族などの言葉をすくい上げて伝えられればと思ったのです。

たとえば、拘置所幹部は匿名を条件にこんな話をしてくれました。

「子どもが『お父さんは人殺しだ』といじめられたらどうするのか、逆に子どもから『お父さんは人を殺す仕事をしているの?』と聞かれたらどうするのか。現場ではいろんな悩みが起きているのです」

被害者には犯人の死刑を望む生き方しか許されないのか

——知られざる現場の本音ですね。一方で国民の約8割が死刑に容認というデータもあります。国民が遺族感情をおもんばかっているからでしょうか。

そこは大きいと思います。ただ第三者が遺族感情をどこまで共有できるのか。

ここで知ってほしいのは、加害者に対して死刑を望む遺族もいれば、望まない遺族もいるということ。弟を殺害されたある男性は死刑反対の発言をすると「被害者感情を考えたことがあるのか!」と問われることがあるそうです。彼はこう語っていました。

「被害者には、犯人の死刑を望む生き方しか許されないのだろうか」
「みなさん私の弟などが殺された事件を、いま覚えていますか? 当時はずいぶんと騒がれましたが、時間が経つと何事もなかったように忘れられていきます。死刑は抑止力にならないし、時間が経てば忘れ去られていくんです」

時間が経てば忘れ去られていく——。そこには我々メディアの問題もあります。死刑執行後、遺族から「これでひとつの区切りが付いた」というコメントを引き出し、型どおりの報道を終える。そして、事件そのものが忘却の海に沈んでいく。