日本史のなかで唯一、暗殺された天皇がいる。歴史研究家の河合敦さんは「それは崇峻天皇だ。自分を天皇にした蘇我馬子に対して悪口を言ったため、暗殺されてしまった。うかつな発言だったが、日本初の女性天皇が誕生するきっかけになった」という――。(第2回)

※本稿は、河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)の一部を再編集したものです。

ささいな悪口がきっかけで暗殺された崇峻天皇

第32代・崇峻天皇は、史実として暗殺されたことが明らかな唯一の天皇(大王)である。しかもそのきっかけは、ほんのささいな悪口だった。

崇峻天皇を殺害したのは、蘇我馬子である。蘇我氏は、部下に渡来人(大陸からの移民)などを多く採用し、大和政権の財政をつかさどるようになった。そして、馬子の父・稲目いなめのとき、欽明朝で大臣おおおみに就いて大きな力をふるい始めた。いわば新興勢力といえよう。

ただ、当初はライバルの物部もののべ氏のほうが、勢力が強かった。538年に仏教が公伝した際、欽明天皇は仏教の受容をめぐって臣下にはかったが、崇仏を主張する蘇我稲目に対し、大連おおむらじの物部尾輿おこしが「国つ神(祖先神)の怒りを招く」と反対したので、公的な崇拝は沙汰止みとなっている。この崇仏論争がきっかけで、蘇我氏と物部氏は激しく反目するようになった。

馬子は敏達びだつ天皇が即位した際、父同様に大臣となり、次の用明天皇の時代もその地位に留まった。587年に用明が崩御すると、馬子のライバルである大連の物部守屋(尾輿の子)が穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、用明天皇の弟)を擁立しようとした。

穴穂部皇子の母は、蘇我稲目の娘だったが、守屋がそんな蘇我系の皇族を擁立しようとしたのには訳があった。二人は強い絆で結ばれていたのだ。