※本稿は、細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
頼朝がナンパ師であったことは間違いない
ヒマ人の頼朝が毎日することは、父義朝はじめ一族の菩提を弔うための読経(だけ)であった(『吾妻鏡』治承4年7月5日条)。金があってヒマで健康な男がやることは決まっている。
ナンパである。
幕府を開いてからの行状を見れば、頼朝がナンパ師であったことは間違い無い。
そして無粋な男ばかりの東国にあって、武士の世界ではトップクラスの血統で、都育ちで、その上「かわいそうな境遇」の頼朝は、さぞやモテたことであろう。
しかし、残念ながら、流人時代に頼朝が引っかけたことがわかるのは、2人である。
まず、今は温泉街で有名な伊東を本拠地とする伊豆最大の豪族伊東祐親の娘(俗に八重と伝える)。
頼朝は祐親が京都に出張中に八重に通じ、男子(俗に千鶴と呼ばれる)をもうけた。
そして安元元年(1175)9月、頼朝29歳の時、事件が起きる(寿永元年2月15日条)。
京都から帰って来た祐親は「伊勢平氏」への聞こえを恐れ、頼朝と八重を別れさせ、家臣に孫である千鶴の殺害を命じた。千鶴は簀巻きにされて重石を付けられ、生きたまま松川(伊東大川)の淵に沈められた(『源平闘諍録』など)。3歳だったという。
最期まで解決しなかった八重の父との確執
祖父によって葬られた千鶴。この子を偲ぶ歌があるので、紹介しておこう(私はこの歌を『歴史読本』昭和56年10月号159頁に載っている中村吾郎氏作と思われるコラム「頼朝の悲恋」で知ったのであるが、元ネタがわからない。ご存知の方はご教示をお願いしたい)。
千鶴可愛や世が世であれば
六十余州の天下の跡目
誰をまつ川 流れも清く
お湯で賑う伊東町
頼朝は、またしても肉親を失った。
頼朝の悲しみと怒りも深かったであろうが、娘を傷物にされ、孫を殺すハメになった祐親は当然のことながら怒り狂い、頼朝殺害を謀る。だが、頼朝は祐親の息子九郎の急報を受け、伊豆山神社(伊豆大権現、走湯大権現、伊豆山、走湯山)に逃げ込み、危うく難を逃れたのであった。
この事件が祐親を悲劇的な運命に導く。
頼朝挙兵後、祐親は平家方として頼朝と敵対し、頼朝の鎌倉入りから13日後、捕虜となった(治承4年10月19日条)。2年後、頼朝は祐親を許そうとするが、それを聞いた祐親はかえってこれを恥辱とし、自刃して果てるのである(寿永元年2月14日条)。
そして頼朝が次にチョッカイを出したのこそ、北条時政の娘政子であった。