カレンダーに書き込まれていた「死」の文字
そして、余生を楽しむ周囲と比べ、自分の人生は「みじめだった」と振り返った。ふと千枝子さんが寄りかかっている壁を見ると、カレンダーがかけられていることに気がついた。気になったのには理由がある。
地方の企業名が入った、なんの変哲もないカレンダーだが、1年前の8月のものだった。治さんが亡くなった月である。命日の欄をみると、「死」と書き込まれていた。「それね、捨てれんでね。治が亡くなる1カ月くらい前から、カレンダーにメモを取り始めたんよ。いよいよかなぁと思ったで」遡って見せてもらう。
7月23日 治の世話で汗びっしょり
7月24日 治の世話が大変。汗出た
7月25日 治の世話、汗かいた
……
ひと月近く、同じような書き込みが続いた末に、「死」とあった。
自宅で看病する覚悟を決めたものの、日に日に弱っていく治さんの世話は、高齢の親にとってかなりの負担だった。小柄な千枝子さんと息子の身長差は30センチ近くあった。治さんが歩くこともままならなくなると、千枝子さんの力では、ほとんど動かすことができなくなる。
最期の2カ月は、玄関に寝かせ、三和土との段差を利用して、用を足させるしか方法がなかった。
「こんな僕でごめん。もう叩かないから、手を握ってお母さん」
医療にかかることを極端に嫌がった治さんは、最後の最後まで、救急車を呼ぶことすら認めなかった。「『救急車呼ばったらアカンで』って、受話器ちょっと持てば敏感に。音がすれば、『どこへかける』って言うもんで、これはもうアカンなと諦めた」
千枝子さんは、息子の息が絶えたことを確認してから助けを呼んだ。亡くなる間際、治さんは、とても優しい顔をしていたという。そして、消え入りそうな声で、こう言い残した。
「こんな僕でごめん。もう叩かないから、手を握ってお母さん」
治さん自身もまた、一人で思い悩んでいた。千枝子さんは、このとき初めて息子の心の内を知ることができたと振り返る。だが、二人の会話はこれが最後となった。治さんの死から1年。千枝子さんは、いまだに息子の遺骨を手元に置いている。お墓に入れる予定はないという。理由を尋ねると、それまで淡々と話していた千枝子さんが突然、嗚咽し始めた。
「子どもは子どもやもんな。できることなかったか。思い出されてねぇ」
千枝子さんは、息子の気持ちと向き合いきれなかった後悔を抱えながら、毎朝、手を合わせている。治さんは幼い頃、素直で運動神経がよく、自慢の息子だった。運動会では、いつも先頭を走っていた。その息子がなぜ変わってしまったのか。今も、千枝子さんにはその答えがわからない。
仏壇には遺骨とともに、治さんが遺した言葉を書き記したメモが置かれている。