かぎりなく自分にこだわる
息子の一人(かずひと)が「父の生き方の根底に『人間思慕』というものがあったような気がするんです」といっている。相田が若いときの作品に、よくこの言葉が出てくるところから汲みとったのだそうだ。
相田の作品の人間くささは、この思想に裏づけされているからであろう。
かぎりなく人間にこだわった人間はまた、かぎりなく自分にこだわった人間なのである。
『おかげさん』の「あとがき」に彼は、「…私の書くものは書でも詩でもありません。私は書家としても詩人としても世間に通用しません。そのことを一番よく知っているのは自分自身です。私には、自慢できる学歴や肩書は何1ツありません。
私は書という形式を借りて、人間としての本来的なありよう、本当の生き方を語っているだけです。誰に対して?
自分です。自分ぐらい厄介なものはないからです。ああなりたい、こうなりたい、あれも欲しい、これも欲しい。人につける点は辛く、自分につける点は甘い。言うこととやることがいつもちぐはぐ、それが人間、それが自分だからです。
そういう自分を、あるがままに、できるだけ正直にさらけ出したのがこの本です…」
と書いているが、この姿勢は、彼の全作品をつらぬくものだ。
するけれど
やっぱり自分が
一番かわいい
むりを
しないで
なまけない
わたしは
弱い人間だから
物慾 色慾
名誉慾
人間はねぇ
慾望の固まり
だね
人間のわたし
自己顕示
自己嫌悪
わたしの
こころの
うらおもて
わたしに問いをくり返す作品が、つぎつぎに目に灼きつく。相田は、「決して…カッコいい、きれいな自分とは限りません。人に見せたくない自分、会いたくない自分、認めたくない自分とも会わなければなりません。それが私にとっては修行だと思うからです…」
とも書いている。
これは、彼が終生師事した武井哲応老師から、徹底的に叩きこまれた教えでもあった。「自分がどう動くか、無責任な傍観者になってはいけない」ということでもあった。
今は「一億総評論家」といわれている時代だ。日本人は「傍観的行動主義者」といわれている。評論に甘んじていれば、自分のことは忘れてしまう。
武井が警めたのは、このことであった。
相田の作品は、批判や内省にとどまらず、つぎの行動を予感させる。誰にもわかるやさしいことばで書かれている作品であるが、それでいながら、内容は実にふかい。