キューバ危機より先に問題となった「ベルリンの壁」

なんで俺が行かなきゃならないんだ!

ジョンソン(政治家)

ジョンソン(政治家)
人間愚痴大全』より(イラスト=アライヨウコ)
リンドン・ベインズ・ジョンソン 1908年-1973年。アメリカ、テキサス州の生まれ。教職などを経て、29歳で下院議員に当選。55歳で第36代大統領に。ベトナム戦争に介入して北爆を強行したことで、世論の反発を集めた。61歳で任期満了となり、政界を引退した。

ケネディが史上最年少で大統領となった時の副大統領がジョンソンだ。ケネディよりも9つ年上で、副大統領に就任した時は53歳だった。

当時は、東西冷戦の真っ只中。キューバ危機よりも先に問題となったのが、ドイツ、とりわけ首都の「ベルリンの壁」問題だ。

第二次世界大戦後、ドイツは東西2つに分けられた。同時に首都ベルリンも東西に分けられたのだが、ベルリンのまわりはすべて東ドイツの領域だ。つまり西ベルリンは東側陣営に囲まれた西側陣営の飛び地のような形になっていた。

ドイツが東西ドイツに分かれて独立すると、西側は徐々に発展を遂げたが、東側は政権が国民を抑圧し生活水準も上がらずにいた。やがて東ドイツから西ドイツへと逃亡する国民が続出。ベルリンでも東ベルリンから西ベルリンへと脱出を試みる国民が増えていった。

そこで東ドイツは、ベルリンの東西を分ける交通路に鉄条網を張り巡らした。それは装甲車や銃を使った力ずくの封鎖だった。1961年8月。ケネディが大統領になって7カ月ほど経った時のことである。当時、周囲を封鎖された西ベルリンの人々は、積極的な対応をとらないアメリカに不満を募らせていた。

ベルリンの壁と望楼
写真=iStock.com/Frank-Andree
※写真はイメージです

安全にたどり着けるかもわからない「飛び地」

そこで、ケネディは、西ベルリンにジョンソンを派遣することにした。孤立を募らせる西ベルリンに大量の軍隊を派遣し、西側諸国の結束を見せつけることにしたのだ。

しかし、ベルリンは、東ドイツの只中にある飛び地だ。軍隊が安全にそこまでたどり着けるのかもわからない。東ドイツ側も武器を用意し、一触即発の状態になっている。

「(そんな危険なところに)なんで俺が行かなくちゃならないんだ!」

ジョンソンは愚痴をこぼしたという。

しかも、命令しているのは、自分より9つも年下の男なのだ。

とはいえ、命令は断れないし、政治的な使命を自覚してもいただろう。結果、ジョンソンは無事務めを果たし、西ベルリンに部隊を派遣することに成功した。

その翌年はキューバ危機があり、明けて1963年6月、ケネディは西ベルリンを訪問。

「私はベルリンの一市民である」

という演説を行い、当地の市民たちの厚い信頼を獲得した。ひょっとすると、ジョンソンにしてみれば、「一番危険な時に現地で活躍したのは自分なのに……。おいしいところを持っていかれた」という気分だったかもしれない。

その演説からわずかに5カ月後。ケネディは凶弾に倒れ、ジョンソンが大統領に昇格した。東西の冷戦は、それから四半世紀以上も続くことになる。