※本稿は、福田智弘『人間愚痴大全』(小学館集英社プロダクション)の一部を再編集したものです。
ハーバードから帰国後に出会った新橋の芸者「梅龍」
うつし絵に口づけしつつ幾たびか 千代子と呼びてきょうも暮しつ
([なかなか会えないから]君の似顔絵にキスをしながら、今日も何度も君の名を呼んで過ごしている)
山本五十六(軍人)
1884年-1943年。新潟県出身。父が56歳の時の子なので五十六と名付けられた。中学を卒業して海軍兵学校へ進み、日露戦争に従軍。のちに連合艦隊司令長官となり真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などを指揮した。死後、元帥に列せられる。
「大日本帝国軍人」などというと、お堅いイメージがつきまとうかもしれない。しかし、真面目な軍人さんであっても、もちろん恋はする。
「若いうちは誰だって恋をするものだ」
という人もいるかもしれない。いやいや、人は40歳になっても、50歳になっても恋をするものだ。「大日本帝国連合艦隊司令長官 山本五十六」も、そんな一人の人間だった。
長岡藩士の子として生まれた山本は、海軍兵学校を卒業後間もなく、日露戦争に従軍。日本海海戦において重傷を負う。その後、32歳で海軍大学校を卒業。その2年後、士族の娘と結婚している。しかし、残念ながら、今回の恋の相手は、奥さまではない。
結婚した翌年からアメリカに行き、ハーバード大学に学んだ山本は、帰国して海軍大佐から少将へと出世を遂げる頃、一人の女性と出会った。「梅龍」という名の新橋の芸者だった。
送別会か何かのお座敷で、二人は初めて顔を会わせた。山本はあまりその手の席が得意ではなかったのか、一人むっつりしていた時に、軍の局長から「山本は堅物だから何とかしてやれ」といわれた梅龍が、山本の相手をしているうちに互いの心は通じ合った。
二人の仲は13年続き、山本は60通以上の手紙を書いた
やがて山本は源氏名「梅龍」ではなく、本名の「千代子」さんに「妹として付き合いたい」と語ったという。
そして、二人は男女の仲になった。「堅物」の山本は
「妹に手を付けて済まぬ」
と謝ったという。その時、山本46歳。国際軍縮会議などにも出席し、どんどん出世を果たしていく最中にあった。相手の千代子は山本より20歳若かったから、当時まだ26歳である。
その後、山本は海軍中将から連合艦隊司令長官、そして海軍大将へと出世の階段を昇りつめていく。その間、千代子との仲は続いた。同時にその間、時局は戦争へと向かっていく。
1941年12月8日。山本の、いや日本を含む世界の運命の日がやってきた。その日山本が指揮をとり真珠湾攻撃が行われた。太平洋戦争の勃発である。
その後、戦局はますます緊迫してくる。山本自身も出撃した。その合い間を縫って千代子に手紙を書いたり、直接会ったりもしていたようだ。手紙では当時、病だった千代子の体を心配してもいる。そんな手紙の中に添えた歌がある。
「うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてきょうも暮しつ」
(似顔絵に口づけしながら、何度か『千代子』と呼んで今日も過ごしています)
この歌の翌年、山本は戦死した。二人の仲は約13年続き、山本は激務の中、60通以上の手紙を書いたという。