女学校の教師となり、教え子と恋に落ちた
このまま老い朽ちてしまいたくない
島崎藤村(小説家)
1872年-1943年。長野県西筑摩郡神坂村、現岐阜県中津川市馬籠生まれ。本名、春樹。明治学院を卒業後、明治女学校、東北学院などで教鞭をとる。抒情詩集『若菜集』などを発表後、小説『破戒』『新生』『夜明け前』などを著す。
「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思いけり(後略)」
この抒情的な詩「初恋」でも知られる島崎藤村。のちに小説を書き、『破戒』『夜明け前』などの傑作を残している。
藤村が、女性に胸をときめかしたのは、無論、初恋だけではなかった。多くの恋を経験しながら傑作を書き上げてきた人物である。
大学を卒業後、女学校の教師をした藤村は、そこで恋に落ちた。相手は教え子。しかも、彼女には許嫁がいた。まだ20歳の藤村は道ならぬ恋に迷ったのだ。
やがて、この恋は学校内に知れわたってしまう。悲しみぬいた藤村は、職を辞し、漂泊の旅に出た。
その2年後、藤村の愛した教え子は、許嫁と結婚する。しかし、それからわずか3カ月後、病で急逝した。彼女は死ぬまで藤村の写真を持っていたという。
一方の藤村は、漂泊の旅の途中でも女性と関係を持ったのだが、それについては触れないでおこう。
子供たちに伝えた、五十路での再婚の理由
教え子の死から2年後、藤村は詩集『若菜集』を刊行。その後も27歳で嫁を娶り、34歳で『破戒』を書き小説家としての地位を確かにした彼だったが、4年後、新たな悲しみに襲われる。妻が4人の子を残し、早世してしまったのだ。
悲しみに暮れながら執筆を続けた藤村。幼い子の世話のために、姪が家事手伝いに来てくれていたのだが、今度は、その姪と関係を持ってしまう。
罪の意識にかられた藤村は、やがてフランスへと旅立つ。現地で第一次世界大戦にも遭遇し、帰国した時には、彼はもう40代半ばになっていた。
こうしてさまざまな愛の形を経験した藤村も、やがて五十路を過ぎる。文芸に関する情熱も再び動き出し、雑誌『処女地』を創刊する。
と、同時に別の情熱も動きだした。同誌の編集に関わっていた加藤静子という女性と恋に落ちたのである。彼女は、藤村より24歳も年下であった。
藤村52歳、静子28歳の春。藤村は彼女に手紙を送った。
「わたしたちのLifeを一つにするということに心から御賛成下さるでしょうか」
プロポーズの言葉だ。藤村は、五十路を過ぎて、なぜ再び結婚しようとしたのだろうか。その心情は、のちに子どもたちに送った手紙の中に現れていた。
「とうさんもこのまま老い朽ちてしまいたくないからです」
静子は、4年間悩んだ末に、プロポーズを受け入れ、晩年をともに過ごした。
数々の恋愛を経験した藤村。教え子との愛からは『春』、姪との愛からは『新生』などの小説が産み出されてもいる。